世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年7月22日(木)理由を説明するかどうか

余計な理由は隙をあたえる

余計な理由を付け加えると、むしろ、つけいる隙を与える。当たり障りのなさそうなそれっぽい説明や、言い訳めいたものなら、なおさらだ。物事や作品に対する感想や評価でもそういう面があるなとは思った。

なにより感覚・感情・感想的な部分は、理由なんて付け加えずに言い切ってしまったほうが、歯切れがよく、潔くて、覚悟や自信もさえ垣間見える感じになったりする。防衛ラインが見えづらくなって糾弾もしづらくなる。でも、そのぶん、不誠実メーターが上がる、というか、わかりあう難度は上がって、対話の成立率は下がりそう、って感じだ。

思いついた暫定的な「自分の根拠」をわざわざ書くか

自分のモヤモヤがうまく言語化できなかったとき、それでも「根拠と結論」という形で(半ば無理やりに、理由を)描き出してみせるか、理由を端折った形で「断言」してみせることで背景を悟らせない(というかそもそも自分でも見通せなかったものなので、諦めて、さらっと横に除ける)か。どちらがよいかは難しい。当然ケースバイケースだ。その文章がどういう目的のもとで書かれたものかによっても変わる。好みの問題もかかわってくる。議論や反論や対話が好きなら、不備があると自覚していても書けばいいし、暫定的でもことばとして出せたものに意味があると感じられるなら、それも書けばよい(望まぬ異論反論には、それを置く環境で対処したい)。見栄を張りたいならうまく隠すのももちろんアリ。

ブラックボックスでも、とりあえず描き出してみる

たとえば感想文の中で、●●だから好きだ、●●なのはよかった、と書くときに、●●だとなぜ好きなんだろう、●●はなにがいいんだろう、と考えることは多い。けれどそこは(いくら考えてみても)ブラックボックスなこともまた多い。それでも、ことばにしようとしているのなら、理屈や論理のもと、あえて形にしてみせる価値、そして誠実さというものが、あるみたいだ、とは感じるようになった。たとえうまく捉えられなかったとしても、とにかく、臆さず、遠慮せず、恰好つけずに、できる範囲で「形」にしてみせる意味。それが対話とか未来への道を切り拓く可能性。

言語化ばかりでもない

モヤモヤを(中途半端な形でも)ことばにしようとする行ないが、全方位的に「いいことだ」と思っていそうな空気になってきた気もするけれど、それもそうでもない。好みとしてはたしかにそちらに軍配が上がる。けど、それが自分に対する誤認や欺瞞につながるケースもあれば、ことばばかりを優先する固定観念を醸造する基盤にならないとも限らない。臨機応変とか柔軟性とかのもと扱わないとならないのはどれも同じだなとは思う。