興奮と落ち着きを、どんなイメージで
興奮気味に「こんなニュースがあったらしいよ!」って言われたときに、フーンと、冷たい反応を返していることがときどきある。あえて驚かないようにしてしまうというか。伝聞ニュースみたいなものにはとくに、冷徹で分析的な目線を向けたくなる。けど、自分が「こんなことがあったんだって!」と誰かに言いたくなったときに、別に、クールに受け流されたくはない。ダブルスタンダードだ。典型的なワガママだなとも思った。都合よく使い分けるのをやめたほうがよい気もするけれど、直感的な反応としては、うまく逃れられる気がしない。どうしてもそうしてしまいそうだ。多少は気をつけられたとしても、抗いきれない気はする。
ひとからなにかのニュースを伝えられたときに、しっかりと、それを理解したい。落ち着いて、視野を広く持ち、油断することなく、受けとめたい。そうやって、いわば精査したくなる。逆に、自分が、ビックリして、楽しくなって、誰かにニュースを語るときは、むしろ視野を狭くし、興奮したまま語りたいと思ってしまう。落ち着くのを避けて、精査しないようにする。じゃないと興奮が落ち着いちゃうもんね、って思った。
興奮・視野狭窄・楽しさと、丁寧・落ち着き・分析力が、それぞれかならずしもセットってことはないんだろう、とは考える。けど、わりとそばにいるようには見える。仲がよさそう。距離は近そう。相性もよさそう。どういう比喩、イメージを胸にいだいて、そういったものを、手に取るか、コントロールしようとするか、で、手ざわりや効果が変わってくる。そういう側面もあるようなので、それらを「なに」として見つめるかは、考えておきたいなと思った。
強引を評価する
いまの職場や上司の持つ世界観として、とにかく「強引」であればよい、といった面があると感じられるようにはなってきた。「強引」であればあるほど評価される。主体性、積極性、行動力がある、といった認知に変換され、受けとめられているのがわかる。そのあたりの変換プロセスを見る機会は多かった。経験が重なって理解も深まった。ここが理解できるまでに時間がかかった。そういう認知や空間があると想像していなかった。まるっきり想定外だった。ただ、消極的、他責的、軋轢や反発を怖れて及び腰になる、といった事態が、まあまあ人類に発生しやすい、ということもわかってはきたので、その逆側に位置しがちな、「相手を気持ちを斟酌しない(しないでよいと感じられる)」特性を、よしと見做す目線も、考えられるようにはなった。特に、仲間なり部下なりがそういう動きを(自主的に、勝手に)してくれているなら、そりゃ助かるだろう。「あんまりそういうことしたくないんだが」「そういう振る舞いが組織や世界をよくすると思えないんだが」と言って、距離を置きたいと思っているぼくのいまの気持ちの中にだって、誰かがこちらに都合のよいよう「強引に」動いてくれたら助かるぜ、って感じているところはなくもない。