世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年7月18日(金)切実な醜悪をどう見るか

ひどい思いもひとりじゃない

決して自分一人ではないんだと知れるのは嬉しい。孤独は哀しい。ひそかにささくれ立っていく。同じようなひとがいるんだと知るだけで、悦ばしく、ときには、生き延びる糧にすらなる。肯定してもらえた気分になる。だから、情けなかったり、ときには非難の対象にすらなりかねないような、醜悪な思惑や性質でも、語る意味はあるのかな、とは、ときどき考える。顔を背けたくなるような、非道な心情が、どれくらい赦されるのかもわからないけど、でも、どうしようもない同じ想いを、たとえばぼくもまた抱いていたとするのなら、それが極めて重大な慰めになる姿も想像できる。誰かのこころに届くこともあるんだろうと期待してよい気もしてくる。

どれくらい、ほんとうに、おのれの「生」と切り離せない、切実で本気の思いなのかは、たぶん誰にもわからない。自分自身のことであっても究極的にはわからない。悪逆非道な心持ちが、いつだって胸の中から消えることはなく、けれど、ちゃんと、それをずうっと押さえつけて、いくらつらくても我慢して、そうして生きているひとが、どのくらいいるのかわからないし、どういった思いがそういうものでありうるのかも、わからない。同じような強い気持ちを持っていながら、それが社会や世間に容易に肯定されるものであったなら、なおさらわからないだろう。見えにくくはなるだろう。

必死の醜悪はどうしよう

どれだけ醜悪で低俗で独善的な気持ちが、この世にあって、しかもそれが、どれくらい強く切実にそのひとの生と結びついてしまっているのか。ぜんぜん想像できない、って思わざるをえない。どこまでいっても想像の及ばない範囲がたぶんある。ぼくが、あなたが、どれだけ「最低の気持ち」を想像したところで、それより下がきっとあり、つまりそこは、見下そうとしてしまう空間になってきてしまうんだと思う。

本気の、切実な、どうしようもない気持ちみたいなものを、どのくらい批難してよいものなのか、やっぱりわからないよな~、と考えていた。そんなもん批難する権利なんて持ちようがないのだ、っていうふうに、ぼくの場合、自然体だと考えたくなってしまうところがあるため、それでも被害や迷惑を被った場合にどうしよう、っていう問いのもと、困惑したんだと思う。贅沢の極みでワガママ的にむちゃくちゃやっている人相手なら、そりゃ、文句のひとつもカンタンにつけられるけど、そうじゃなかったらどうすればいいのかわからない。わからないとい言いながら、ぶつかるしかないんだろうと、想像してもいるけれど。