世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年7月16日(水)やれることはぜんぶやる

なりふりかまわないタイプ

「生き延びるためにはなりふりまわずやるしかない」「上品ぶってやりかたを選んでるなんて、ただの甘えだ」「ほんとうの苦しみを知らないだけだ。それを知っていたらそんなに甘いことは言っていられない」「必死にやるべきことをやれ」みたいな意見があるのはわかるし、実際、そういった状況があるんだろうとも思う。そして、一面、真実なのは間違いない。とくに否定はない。そういった、懸命さ、真剣さ、貪欲さに欠ける自覚も、正直ある。たしかに"ほんとうの"困窮や絶望を知らない気はしている。かならずも知らなきゃいけないとはもちろん思わない。が、知っているか知らないかのあいだの壁はたしかに大きそうである。カンタンには乗り越えられそうにない。

だけどそれでもやれることをやるしかない、っていう話と、だったらもうちょっと深くしっかり想像してみたらいいんじゃない?という話の、ふたつの話への分岐が思い浮かんだ。じゃあオマエも困窮して絶望しろ、というルートもなくはない気がしたけど、わざわざ選ぶ選択肢ではないか、ということにしておく。なんにせよ、もっと動いたり、より知ろうとしたり、うーん、なにもできないわけではないはず、という言葉は描きたかった。考えるほうについては、困窮や絶望に思いを馳せてみるだけでなにが変わるってことでもないかもしれないが、だからと言って、そこが行き止まりとも思えないし。

最初に想定していた話運びのルートは見失った気はする。

余談というか連想だけど、実際そのひと自身はたいして苦しんでこなかったにもかかわらず、困窮も絶望もしっかり味わってきたかのような顔で、「オマエなんてほんとうの苦しみを知らないくせに」とか言って、コチラを黙らせようとする振る舞ってくる(構造的に反論しにくいように卑怯に悪用してくる)人もいるとは思うから、そのあたりのことも、ていねいに踏まえておきたくはある。詐欺的や被害妄想的に使う人もたくさんいるはずで、そんなことばをぜんぶ受け止めているわけにもいかない。しかしだからといって、ぜんぶ跳ね除けて、こころからの言葉を軽視することになるのも望まない。

そこに品を求める

当初の思惑を忘れた。うーん。なんだっけ。そうだ。そうそう。

ひとさまの振る舞いに対し、「品がないな~」「さすがに卑しすぎる」「低俗で恥ずかしい」「いくら苦しいったって限度があるでしょ」「もっと上品に振る舞いなよ」とか思ってしまうことはあって、でも、どれくらいそんなこと言ってよいもんなんだろうな、ということを考えていたのだった。そして、「生きるためにやれることをとにかくやっているだけだ」「使えるものはぜんぶ使っているだけだ」って言われたときに、なにが言えるのか、って問題にも、目を向けた。それを受け止めてどうすればいいか(それをどういうふうに聞いて、こころに響かせて、そのうえで、どういう動きかたがありうるか)も。

究極的には、なにも言えない、というか、結局のところ人は人に何事も言いようはなく、むしろなにを言ったところで意味なんてないし、つまり、聞く側も聞かなきゃいけない義務なんてとうぜんなくて、だからこそ、なんだって言ってよい、みたいなところに、まず、着地するんだとは思う。そして、そういう「人と人との対話」のリミットを踏まえたうえで、下品とか卑しいとか低俗とか、そういった評価が、逆に、意味を持ちうる世界を、立ち上げられる可能性があるんだ、とも考える。ぜんぶが無化されるのはさすがに意味わかんないし。