褒めづらい、褒めづらくない
精神的にも身体的にも、あるいは成果的にも、けつまずくことがどうしても増えてしまったため、無邪気に「前向きな話」を言い放てなくなったところもなくはない。少なくとも、検証はするようになった。若いころはもっと気軽に称賛も応援もしていた。けど、そうも言っていられない場面も増え、じゃっかん、ためらうようにもなっている。たとえばだけど、余命数時間くらいの人間の、そのひとの今後を、シンプルに応援してよいのか、たしかに迷う。ただ、遠慮なんかせず、応援したってよいような気も、しなくはない。むしろ応援すべきだとすら思ったりする。もちろん、わかりやすい正解はないんだろう。こうして言葉上だけで問うてみせるなら、こうしたほうが絶対よい!!!っていう乱暴な結論も出せるかもしれないが、実際の場面に適用するてなったら、それだけの問題でも、きっとない。いろいろなケースがある。適する言葉も態度も一様ではない。
一周して最近はまたやや前向きな気分になっているのだけど、つらくて後ろ向きだった時期も(しかもそれも最近)確実にあったから、そのあいだにしっかり立って、都合よく過去を捨て去るようなこともせず、いまの自分に言えることを、ちゃんと、言っていきたい。そんなふうには思う。それが、若い頃に、理想像のひとつとして描いていた、いくつになったって人生や世界を前向きにとらえようとする言葉であるなら、たいへんありがたい。そういうふうに(いまだに)(運よく)繋がっていてくれるなら、そんなにうれしいことはない。今後どちらに振れるかも、ほんとうにわからないのだが、前向きを望み気分みたいなものは、ちょっとだけでも、ちょっとずつでも、生き延びさせていきたい。
勘違い称賛を叫びたくない(叫んだっていいとしたい)
いくら世界を前向きに捉えて「素敵だ」と叫んだところで、あるいは、すごいなあと思ったひとに「あなたはすごい」と言ったところで、妥当な評価かどうかはわからない。勘違いや筋違いも当然ありえて、怖い。そんなこんなで、称賛を、軋ませるようになった。言いづらくしているのが自分でもわかる。しかし、わざわざ自分の手でそうしているのは、さすがに人生の無駄打ちっぽいんじゃないか、と思うところはあった。抑圧させたいわけじゃない。打破できるならそうしたい。
「この歳でとにかく前向きな解釈を持とうとするスタンス、アリなんすかね~」くらいのことは、考えてしまうことがある。別に考えたっていい気はする。時間の無駄とも思わない。けど、わざわざ軋みを感じに行くようなことでもないのかもね、と思いたかったりはする。せっかくの前向きさを、みずから抑圧し、手放そうとしているなら、なんとかやりくりしてみせたい。