論文とかどれくらい前提にしてよいのか
論文とか研究とか学問とか理論とかが、世界・人類・社会・生活のレベルそれぞれで、どういったあつかいになっているのか(どれくらいの立ち振る舞いで向き合えばよいのか)いまだにわからない。子どもの頃に「めだまやきになにをかけるのが"正解"なんだろう」と不思議に思ったことに対していまだに答えが得られないくらいには不明瞭なままかな。特に、生きていくうちに出くわす「仕事」と呼ばれる領域で、そのへん見出された法則やパターンを援用してよいのかわからない。頭でっかちで現実離れした話持ってくんなよ、って思われずに済むのかわからない。ひとによって違いすぎそうで「常識」の水準が見て取れないままだ。せっかくの人類がかき集めてきた知見がけんもほろろにされているのを見たくないとも思う。
自分たちに都合のよい理屈ばかりを、よい研究だと見定め、身勝手に受け容れているように見える昨今、というか現職環境だ、っていうのが、いま、念頭にはある。そういう状況を眺めながら、「いまの場所が特別なんだろう」「ほんとうはけっこうニュートラルに見つめて受け容れようとしているひとたちがいるに違いない」って思ってよいのかもわからない。誰も彼もがほどほどに疑ってかかっていて、参考程度にしかならない、って思っているのだと考えたほうが、事実とまではいかずとも、事実に近い状態なんじゃないか、というバランスを想定はしている。もちろん、アカデミズム万歳と、学術的知見を、少なくとも仮説として受け容れ、ためつすがめつ、検証して、成果を出しているようなひとたちがいるような匂いも、感じてはいる。ただその比率もうまく想像できていない。
人事
最近は人事にかかわる仕事をしているのだけど、人事としての働きかたなどを調べていくうちに、経営・教育・人間にかかわる学問の知見をしっかり活かしながらさまざまな助言や指針を掲げているひとがいることを知って、そういうやりかたもあるんだな~、と理解した。
さまざまな論文を読みまくり、かたよらないよう理論を集め、学問的知見をベースにした「理想的で知的な在りかた」を打ち出していくやりかたがあることに、想像がおよばなかったな、と思う。机上の空論、って言われることを怖れるあまり、研究データと比べたら、(おそらく相対的には非常に)数少ない実体験だけをもとに、仕事も提案も、していた。かならずしもそうじゃなくてもいいのかも、って思うだけにも時間がかかった。目の前のものをつぶさに観察することを軽んじる、って話ではない。でも、人類の知見は組み入れたい。