世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年6月18日(水)広く狭く

応用型・専門型

器用に(ときに本質をつかんでいるからこそ)広く対応できる臨機応変型と、こだわりで突き詰めた狭く深い(根本的だからいろんなところに通ずる)技量によって勝負する専門特化型の、ふたつのやりかたが、まあ大枠で見るなら、あるのかな、って思ったりはする。

この臨機応変と専門特化のイメージのあいだで、フラフラして、どっちつかずになっているのが、一番ダメなのよ、って見解もあるみたいである。さらには、「どっちつかずにならないように」と考え過ぎるあまり、さらにフラついて、というか、さらに一段階上のメタの階層で、浮き足だったことになっていることもあるなと感じる。

臨機応変で行くか専門特化で行くか(本質をつかむ領域までいけば同じ話になっていくという考えかたもあるけど)。その歩みかたを決めたほうがよいとか、決めなければならないとか、かならずしも思うわけではないし、そもそも、決められるようなものでもないような気はするのだが、ともあれ、余所見とか目移りとかで、目の前のものとないがしろにするスタンスが、とにかく、よくないんだ、とは思った。フラついているとそうなりがちだ。

ゼネラリストやスペシャリストという概念で対比されたりもするけれど、実際は、少なくとも、最初のほうは、いずれのルートをを選ぶかとかじゃなくて、目の前の物事に真面目に向き合うかどうか(少なくとも目を逸らしたり軽んじたりしないか)、っていうのが問題になってきたりするんじゃないかと思う。少なくとも割合的には大きい印象である。

自覚

余所見も気移りもして、ときどき、目を逸らしている自覚は、なくもない。「物事に真剣に向き合うのが怖い」みたいなところが、たぶんいまだにけっこうある。何歳になってもあるし、なくなったと思っても、また出てくる。一掃できると思うほうがおこがましいのかもしれない。そういう自分を認めるのが怖い、といった気持ちがあるのもわかる。

「自分を見つめなおす」のステージでぶつかりがちな話ではあるけれど、まあ、御多分に漏れず、自分もぶつかった、って感じである。世界や社会を過ごす中で、「新たな壁」にぶつかり、弱味を突きつけられるたびに発生するものだから、抜本的に超克していけるようなもんでもない(逆にいえば、同じレールのうえでずっと生活していける体勢が整ったらもう出くわさなくていいかも)、って話な気もする。