応援する話
ちゃんと尊敬とか応援はしたい。というか、一定そういう指針のもとでのお金の使い道があってもよいかなとは思う。ぼくが「こういった形のほうが、きっとよい」と感じている世界や世界観があって、それとまったく同じ方向を見ているとまではいかなくとも、大枠では同じ方向に周囲を推し進めてくれてそうなひと(たち)がいるなら、支援はしたい。協力だって仰ぎたい。
尊敬する、支援する、ってなったとき、問題視されるであろう状態は、「心酔するあまり煽られたまま視野が狭まって盲目的になるパターン」と、「聞こえのいい詐欺話に引っかかってコストを無駄にするパターン」かな、とは思った。どちらもたしかに気をつけたい。ただ、精査や検証にばかりかまけて話が前に進まなかったら意味がないなとも思う。
ものすごく素敵な話をしてるじゃん、こういう世界観は大好きだ、頑張っている個人・企業だな~、って感じたときに、けどそんなの結局は口先だけなんじゃないか、そして、ぼくはぼくで先走ってよいところばかり見すぎなんじゃないか、って考えたりもする。けれど、そんなことを気にするのは、時間の無駄なんじゃない?とも思わなくはない。落ち着いて考える時間はもちろん常にあったほうがよい。が、ケースバイケースだし、リソース配分にもよる。ほんとうにつどつど考えている余裕なんてあるのか?逆にそれで見逃している部分があるんじゃないのか?とも思う。
最近だと動画配信や音声配信、あとは普通に読書の中で、尊敬するひと(たち)は増えている。同じような分野で同じような方向を目指しているのにこことここは交わらないんだな~、って思わされることも多い。
はたから見たらけっこうしょーもないことを言っていたり矛盾したことをやっていたり行き届いていなかったりするのに、聞こえのいいお題目に惑わされて、舞い上がったまま尊敬している可能性も、もちろんなくはない。それは考慮して(つまりビビって)、このひと(たち)の世界観ってとってもよいよね!って素直に称賛できなくなっているところもある。が、とはいえ、それもよくないな、とは考えるのだった。
くりかえしには鳴るけど、せっかくの尊敬すべき対象との出会いを、わざわざ先送りして、空回りさせている気もしなくはない。そんな暇じゃないはず、とも言える。「訂正可能性」あたりの概念を踏まえれば、まず信じてみて、折に触れて検証していればいいような気もする。