ゴミを外す効果はある
調子の悪いテレビをたたいて直すじゃないけど、衝撃によって内側の歯車にあったゴミがはずれ、ふたたび回り始めてくれる、くらいのイメージは持てる。痛みや、それによる恐怖も、とどこおりを打破させるための、ひとつのきっかけにはなってくれそうだとも思う。荒療治めいたものが、ときには必要なんだろう。びくっとさせる。はっとさせる。そうして、どうにか、余所見をさせる。新たなところに目を向けさせる。覚醒に導く痛みといえば聞こえはよい。
「ただし萎縮までいくと逆効果」っていうのは、一般的な注意事項として掲げておいてよいポイントなんじゃないかな、とは思った。不足とか過剰とかを考慮しない助言ってけっこう意味なくなってきちゃうっぽいしなあ、ということは、最近少し気にしている。
痛くて嫌いな出来事も、日々、なくはなく、それをあえて前向きに受けとめることを、常に「是」としたいわけでもないのだが(ちゃんと「痛み」を排除できる気持ちも持っておきたいのだが)、痛みによって覚醒している場面もたしかにあって、「痛みなんてぜんぶ悪だ」と、一蹴したいわけではない。余所見することができて世界が広がったならそれはそれで事実としてちゃんと認めたい。でも、萎縮するところまで傷が深くなっていたら、こんな痛みは(それをあたえるいまの場所は)たぶん自分には合わんのだ、って、ちゃんと切り捨てたい。どちらも許容できる認識と意志と精神を保ちたい。