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日記を書きます

2025年05月27日(火)「機会を奪われている」は自分に都合よく捉えるしかない

機会強奪パターン

「こうやって対処して」と、事細かに対処フローを説明されたときに、事後的に、「最初から自分でやらせてもらえていれば、同じ対応だってできたはず」と感じることも、最近はある。できないヤツ扱いされているなと解釈し、不満を覚えていたりもする。ひいては、それにより、評価を下げられていそうなことにも抵抗を感じる。

けど、ほんとうにひとりで対処できたかは、じゃっかん疑わしい。あやしいケースも見受けられなくはない。「そんなことしちゃダメじゃん」とのちのちツッコまれかねないような不足のある行動を取っていた可能性もなくはない。ただ、そうであるにしても、場数を増やしていくことで、いずれ自然にできるようになる可能性だってもちろんあるわけで、そこで、そういった経験を積ませようとする挙動が見られないことに対しては、違和も疑問も覚える。ひとのあつかいの下手さや、将来性にも、不安を覚える。

経験を積ませてみよう、少しは任せてみよう、って思えないだけの評価と事例が上長側の内心にはあったのかもしれないが(どうしたってそこは与り知らぬところになるけれど)、とはいえ、ただ、マネジメントを放棄している(マネジメントが破綻している)だけにも見えなくはない。

こいつに任せてもダメだとか、もうちょっと任せてもらえればとか、そのあたりの互いの認識が適切なのか勘違いなのか、明確な答えはないが、少なくとも自分側の視点で見れば、「成長の機会を奪われている」という解釈が可能なのは事実で、そこは、いちおう、「奪われている」という認識をいくらか持っておいたほうがよいんだとは思う。被害ルートも想定はしておいたほうがよい。答えのない中、「適切に諦められている」なんて思ったところで、自分側には、メリットがない。なにも解決しない。よくならない。答えがないなら、ないなりに、自分に都合のよい判断に寄せていくしかないところはあるんだろう。じゃないと、構造的に、抜け出る機会を奪われ、都合よくあつかわれ続けるだけになりかねない。