挨拶も省略してよい
指示代名詞を使うことすら避けていた時期がある。省略せず、ロジックが通り抜けていくところすべてを記しておきたかった。ここにある「これ」「それ」「あれ」はなにを指し示しているのか、といった読み手側の推測を、意識的に「発動させない」ことで、意味の読み取りにおける「完全無欠」を狙えるのでは、とか期待していた。
隙間のない寿司詰めの文章ってだいぶ読みづらいぞ、みたいなことは想像できなかった。文と文のあいだの飛躍、そういった行間に働く想像こそが、読解における楽しみどころであって、それを奪うなんてとんでもないよ、ということも思いつけなかった。
噛んで含めるように、しつこいくらい懇切丁寧に、かならずしも伝えなくてもよいのだと、最近になって、ようやく感じられるようにはなった。「けっこう汲んでくれるものなんだ」と知った。
仕事のメールも長い
といったことを狙っていた時期があったせいなのかどうかわからないが、文章構成における、情報不足が、じゃっかんは気に障る。隙間が、空白が、スカスカが、気にはなる。普通に説明が足りておらず、「こういったケースだったらどうなるのかが書いてないじゃん!」とかなるのは、けっこう苦手である。
同じ種類の習性によって、仕事のメールもまた、長くしがちだ。典型的な構文を採用し、前提も経緯も仮説も提言もぜんぶ配置して、長々と書いてしまうことが少なくない。懇切丁寧に書けば書くほどよい、みたいな固定観念がどうしてもある。
が、最近、そんなに細々書かなくていいよ、ってツッコまれる機会があった。挨拶だって省略してよいようだ。「挨拶を省略するなんて無礼だからぜったい書かねば」くらいの思考停止じみた認識が、たしかにあった。朴訥で愚鈍な思いこみがあった。決して嬉しいツッコミではなく、全世界共通の認識だとか思わないほうがよいんだろうとも感じるが、それでも、「そう感じているひとがひとりでもいるなら、その選択肢も選べるようにしておいたほうがよいはず」と思えるようになったこと自体は、ありがたかった。可動域は広がった。