世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年05月10日(土)コンフィデンスマンから神説教

終わらせにかかる手つき

話を終わらせにかかる自分の手つきがあんまり好きじゃない。安直なオチにすがりついている気分にはなってくる。いっつも前向きな形で話を締めようとする文章が好きじゃないのだが(物事を毎回おんなじように矮小化して、馬鹿の一つ覚えの掛け声だけ叫んで、話のオチとするスタイルには飽きるのだが)、結局はじぶんも、似たようなことをしてるじゃん、って思えてくる。「難しいもんだ」とか「やっていくしかない」とか「こういう場合だってあるんだろうけど」とか、まあ、おおむね、似たようなところを目指し始めて、話を収束させている。収束させようと思い立ったときの武器を、ひとつふたつしか持っておらず、あんまり臨機応変に対応できなそう、っていうところが怖いんだとも思う。だからといって、極端にヘンなほうに話を折り曲げて、終わらせればよい、ってわけでもないんだろうけど。謎の発散を目指した結果、意味のわからんブツ切りみたいになっている事例も、なくはないし。

あまえ

ぼくの行動が「甘え」と見做されるかどうか、を気にしている。そんな判定基準をよく意識している。(相手の非にフォーカスしてみずからの正当性を高めようとするのだって「甘え」かもしれないし……、弱音を吐くことすら「甘え」かもしれないし……)。ただ、そういったときに、「甘え」か「甘えじゃない」かの二択で考えてしまっていたことに気づいて、これ、よく考えたら、ゼロイチで考えるべき事柄じゃないな~、とは思った。たぶん、混合率とでもいうような"「割合」や「配分」の概念で考えたほうがよい。「甘え」成分の薄さ・濃さで見たほうがよさそうである。指針を掲げるにしても、注意喚起するにしても、「甘え」成分が気づかず入りこまないよう気をつけようとか、こういう言いかたや解釈だと「甘え」成分が濃くなっていってしまうとか、目の付けどころを、少し、変えることができる。自分のこころに対する判定だって、二択問題で決めつけるよりは、いまどれくらい濃いのか?と測る形で見たほうが、そりゃ妥当な答えが出せるでしょ、とは感じるし。

野呂さん

テレビドラマづいているので、なんか見てみようと思って、『なんで私が神説教』を見始めた。ここ最近観た『ホットスポット』『コンフィデンスマンJP』『なんで私が神説教』のいずれもに野呂佳代氏が出ていて、さいきんの俳優としての人気っぷりを感じた。思慮や覚悟を感じるタイプの人柄ではあったため、あらためて人気が出ていても違和感はない。今回のケースがそれに当てはまるか厳密には不明だが、インタビューやエッセイで語っていたことばの中、苦悩や行き詰まりを漏らしていた(気がする)ひとが、いつしか、打ち破った感じになっている光景を見るのは、楽しい。