世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年05月07日(水)どこで使えばいいのかわからない言葉

メメント

常時、目の前のことだけ気にしていれば、終焉に気づくこともなく、怖れることもなく、ある程度は過ごしていける。距離を置かなければ、俯瞰しなければ、客観しなければ、安心していられるところはある。いつか終わる、いつか死ぬ、ということばっかり見つめて生きていくわけにもいかないじゃん(怖いし)、とも思うが、だからといって、ずっと忘れているのもどうかと思う。

"他者"は「死」に向き合わせてくれるところがあるので好きだ、って思っているフシは、少しあるかな。目の前の問題ばかり気にして生きるのではなく、遠くを見つめたり、距離を取ってみたりすることが、まあまあできているかなとは思う。そんなスタイルは定着した。それもまあ、読書やブログのおかげかな、って思ったりはしている。

集団登校

集団登校している小さな子どもたちの横を、自転車で通りすぎたあと、絶妙なタイミングで、「おはようございまーす!」の声が耳に届いた。自転車だったので気づいたときにはけっこう離れていた。確率は低そうなものの、こちらに向かって言ってくれた可能性も、なくはなかった。そう思えるくらいの微妙なタイミングだった。なんか申し訳ない……、と罪悪感を覚えた。こういう、日常のなかで不意に生まれ出てくれるちょっとした気持ちのざらつきが、人間の認知機能の醍醐味みたいなところあるよな~、とも思った。

あつかい難しい言葉

主観的・恣意的・複層的すぎて、取り扱いが難しい言葉って、たくさんある。パッと眺めた範囲だと、「文学」「哲学」「知性」「芸術」「情報」あたりが思いつく。昨日の日記でも「詩情」を用いたが、「詩情」ってなに?と、実はいまでも思っている。皆に共通する明瞭な定義は見出せていない。自分なりに「こう使おう」と覚悟することもできていない。こういった言葉を、しっかり自分のモノにして扱っている気配のひとが、ときどきいて、憧れる。ただ、難しさを完全に掌握したうえで活用しているひとと、難しさなんて気にせずただ振り回しているだけのひとの、いずれもがいるはずで、後者の「子どもみたいに深く考えず無頓着に口にしているだけのひと」に、憧れてしまっているところも、きっとなくはない。だからといって、ここまで考えたなら使ってオッケー、なんていう決まりも基準もないはずなので、むしろそれでよい、って気もしなくはないけれど。