世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年5月5日(月)父親の話をいずれまた書く

ピーキーファジーメモリーズ

父親のことを思い出す文章を少し前に書かせてもらった。満足いく出来だったかはちょっとあやしい。「最低限」になってしまったと思う。文章からなんとか無駄を削ぎ落としていきたい、と気負っていた時期だったというのはある。消えゆく記憶をつなぎ止めるために、余所見をしないよう、端的に書き出していこうという気持ちも強くて、それも、言葉を削る結果につながった。思い出せないことに向き合うのが怖ろしくて、手をこまねいてしまった、というか、投げやりなところもあった。そのせいで、「最低限」になったのだった。感情、感覚、おぼろげなものを、ほんとうはもっと足したかった。けれど、それでも、あれが書けて、ほんとうによかった。いまだから書けるものを書けた。足掛かりになるものを書けた。起点や基点にしていけるものを書けた。言葉を継ぎ足し、あらためて、補完したい。そういった衝動をもたらしてくれる文章でもあった。親の話をきちんと訊いておこうと親族に声をかけられたのも、たぶん、あの文章があったおかげだ。

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いくつかの場所で書く

文章の置き場所をすこし分散させた。というか、楽しそうだなとさいきん興味を持った「場」を片っ端から試してみた。結果として、なんとなく、無数に書いている。書けば書くほど書きたいことが溢れてくる、というテンションと、書き切ってスッキリしてしまってもう弾切れだよー、というテンションが、交互にうねりながらやってきている。ことばの出てきかたがよくわからないことになっている。混濁していて自分のノリがただつかめないときもあれば、今回のように、明瞭なのに自分のノリがなぜかつかめないこともあって、後者のケースは、妙に(特に)楽しい。見えすぎて余計混乱させられる、とかいえば聞こえはいいが、よく見えているな、という感覚のうえで、境界線を見通せない自分の複雑な姿がつかめると、そんな複雑さが楽しく見えてくるんだと思う。