世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年04月16日(水)「同じ」でくくらなければ、それで世界は輝くのか

掛け替えなかろうがあろうが

ふつうだ、とか、あたりまえじゃん、とか頭っから決めつけて、物事から個別性や特殊性を取りのぞく。のっぺりさせて、世界に埋没させる。「同じ」でくくる。なんでもないものにする。

あえて、そうしないことで、稀少さや唯一さが、世界のきらびやかさが、取り戻せるのかな、とは、ときどき考える。目の前のそれが、掛け替えなく、大切に思えてくる気はする。そして、そういった意識構造が、優しさというものの背後にあるんじゃないか、と思ったりすることもある。のっぺりさせないなら優しくなれるのではないか、ってたまに考える。

自然体で考えると、ぼくの場合、そんなルートで思考が自動的に進んでしまうだけど、でも、ここ、飛躍もあるよな~、って思った。ひとつひとつを、「同じ」でくくることなく、ちゃんと見つめる。埋没させない。均質化させない。そうすることで、「輝いて見えてくる」って思っちゃうんだけど、実際、繋がってないよな、と感じる。個別だろうが特殊だろうが、別に、輝かない。一回性を忘れないようにしたところで、世界は暗い。そういう認識だってありうるはずだ。

掛け替えのない、っていう形容詞、輝きみたいなものを勝手に読み取っちゃうんだけど、「掛け替えのないのはわかるけど、だからなに?」っていう断絶だって、むろん、あってよい。ここを履き違えるのはよくなさそう~、って考えていた。

非の話をまぜると長くなる

職場でおこなわれた質問と応答のやりとりを思い出して、ズレた答えを返していた、と反省する。もっとうまく捌きたかった。そういうふうに考えていたら、どっちに非があったんだろう、という疑問から、解決策や改善策がどんどんと取り留めもない感じになっていって、思索にキリがなくなった。長引いた。

実際、どちらに非があったのかは見かた次第だろう。はたしてぼくのせいだったのか、はたまた、相手のせいと捉えてもよい事例だったのか。相対的な問題だったのか。ケースバイケースの問題、グラデーションの問題、どちらが悪いとかじゃそもそもなく、ただただ相性の問題、とか、いろいろな面がるあるとは思った。どう捉えてよいのか決めるのは難しかった。

いろんな物差しを適用できる。ものによっては、かならずしも、そんなに責任感や罪悪感を感じなくてもよかったんだよ、って結論づけられるのかもしれない。けれど、むろん、なにかできることがあって、ぼくはそれをすべきだったのかもしれない、とも言えなくはない。

といったあたりの、「いずれに非があったのか」「どこに責任があったのか」といった悲喜こもごもを、問題意識に混ぜはじめてしまうと、ほんとうにキリがなくなるな、と、思索の進めかたについても、反省させられる羽目になった。どちらが悪かった問題は、場に、いらん混乱をまねく。できることなら、それはそれ、これはこれ、と切り分けて、「誰が悪かったのか、どう改善していくべきなのか」成分からは距離を置き、考えるようにしていったほうがよいんだろう。昨今の暗い気持ち分析トークが長くなるのも、このあたりが軋轢になっている気もするし。ここでずっとつまずいてて(時間が足りなくて)先にも前にもぜんぜん進まんし。