フツーをなくす
「こんなのフツーじゃん」といった無邪気なことばが、ときに、ひどく残酷だったりもする。どんなものでも一回性・個別性があって、「フツーのものなんてない」という見解は、もちろんわかる。誰でも持っているようなフツーのものだろ、って、たとえ、ぼくやあなたが見なしていても、時代・地域・属性によっては、得がたいものだったりするのも間違いないはずで、そういう意味で、「フツーのものなんてない」と言いたくなるケースもまた、わかる。物知らずが、「こんなのフツーだよ」と言いつつ、贅沢をあたりまえに享受しているだけのことはあるだろう。
できれば物事をフラットには見たい。「フツーのものなんてない」んだ、と平常的には思いたい。無邪気に、なにかを、あなどったり軽んじたりしないためにも、それをしたい。けれど、そうすると今度は、物事を大事に思えなくなっていきそうな気もしている。普通があるから、普通じゃないものが形成できるんじゃないか説だ。蔑んだり貶めたりする必要はなくても、普通のものから、ピックアップして、特別視しないと、大切にはあつかえそうにない。デコボコさせていかないと感情を動かしにくい。しぼりこまないと貴重なものに見えてこない。
全人類とフラットに付き合えるわけでもないんだよなとは思う。運も縁も作用する。フツーの人間関係なんてない。けれど、ときどきは、こんなもんフツーだ、って、きっと、思ってしまっている。少なくとも、行動の背景に、それに類する認識や気持ちを有している場面がある。どれくらいのマインドやアクションを、そもそも「特別あつかい」だとするのか、そして、どういう気持ちからどういう気持ちまでを、「特別あつかい」していると言って、許されるのか、決めようがない気もするものの、しかし、個々の人間関係に対し、フツーだ、って考えるのは、できれば避けたい気がするのだった。
できるだけ広範囲を、特別あつかいしたい。特別あつかいを、数多く駆動させたい。特別あつかいの範囲を定めるための、グラデーションのコントロール次第で、多少は、なんとかなるんじゃないか、とは考えてみた。定義のほうをズラしてなんとかしようとするの、ちょっとズルいけど、フツーと見做す心持ちを消失させようとするだけなら、まあまあ良い手口な気もするし。