世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年04月02日(水)師匠枠

好きだと言ってよい理由が揃うまで待つのもズルい

素敵なひとがいるものだな、と、誰かの存在を知って、熱を上げはじめるようなことはある。出会って間もないタイミングで、軽々に、尊敬の念をいだきはじめてしまう。ただそれが一過性のものであることも少なくはない。けっこうミーハー的だ。だからといって、すべてがそうだということでもなく、いろいろな事柄が、その後、敬意にしっかり繋がっていって、いずれは「師匠枠」に収まってくれるひとだって、いたりする。プロセスも結果もいろいろである。

出会った直後に、「褒めたい」「勧めたい」と考えることもまあまああるのだけど、それが軽はずみな賛美であることも、これまで少なからずあったため、「安易に称えるのやめておきたい」とは考えがちだ。出会った直後はただでさえ熱量ピーク目を迎えがちだし。そういった自分の刹那的な感じも理解はしているし。

ただ、だからといって、腕組みして、小賢しく、遠巻きに、「そうかんたんに褒めたり勧めたりしませんよ~」ってやっているのが、よい振る舞いなのか、と言われたら、たぶんそうでもないよな~、とは思うのだった。勘違いリスクも許容したうえで、「それでも、いま、好きだと思ったので、好きだと言っておきたいんです」、と言えるだけの決断だって、あってよい。機が熟すまで(好きだというに足る理由が揃うまで)「好きだ」とは言わない、みたいなマナーが当たり前になった世界がよいものになる気もしない。シンプルにズルい気もする。

ほかの面を見たらダメだった(ダメってなんやねん)

ある一面を見て、「素敵だ」と称えた相手が、その後、ほかの側面では、ろくでもなかったとき、まったく好きじゃないことをしていたときに、どうするか、っていうところを問題視している話ではあるのだと思う。いま気にしているのはだいたいそこである。批難されそうで、馬鹿にされそうで、怖い、みたいな問題ももちろんある。最適解もなさそうだし。

だとしても、まあ、ちゃんと経緯を説明するしかないし、その都度、しっかり判断し、更新していくしかない、って考えかたでよいんじゃないかな~、と、いちおうは思った。基本的な指針としては、そのあたりを落としどころにしておきたい。知るにともない増えていく「面」を踏まえ、尊敬の念や好きという気持ちや師事したい思いの比率をどうするか、考えなおしていくしかない。人と人との関係性において、途中で「最終評価」を出すのは、やっぱり厳しい。

熱狂っぽく捉えられたくはない

著名人はだいたい賛否両論なので(どうとでも言えるので)、ひとの目を気にしていたら、なんも言えなくなりがちなのは、間違いない。そして、ひとりの人間を(誰だっていくつもの顔を持つはずの個人を)、わざわざ、大々的に、褒め称え、熱狂めいた言葉であると捉えられるリスクを冒す必要も、たぶんない。だから黙る、隠す、みたいなことをやってしまっていることについて、別にこれ好きじゃない所作でもあるよな~、と思うところはあるのだった。

まあ、あくまで「言いかたの問題」というか、熱狂めいた風に捉えられずに済む"ちゃんと納得してもらえるだけの表現"というものも、きっと、一定、あるはずだから、それを用意すればよいのだ、っていうだけの問題な気もするのだけれど。しかし、結局は、そういった準備が整うのを待って、延々と待ち続けて、なんだかんだ、なにもせぬまま終わる、ってことになりがちだ。可能ならばそれは避けたい。「だとするなら、問題視すべきところは、ちょっと違うところにあるんじゃない?」って気持ちには、なった。

幾人か

最近、敬意を向けるようになった幾人かのひとたちを思い描きながら書いた。素敵なひとたちをしっかり応援していきたい、と思う場面は増えた。対価は大切だ。伝えることにも意味がある。名指しで書きあげてみればよいのかな、って考えてもみたのだけど、わざわざ、一度に、並べて書きあげるようなものでもないのかな、とも思った。ちょっと浅ましい感じというか、乱雑、軽薄、ぶしつけな感じにもなりかねない。折に触れて敬意を表明していくほうがきっとよい。