理屈と膏薬はどこにでもつく
「理屈と膏薬はどこにでもつく」っていう言い回しを初めて聞いたとき、なんだかすごいことを言うなあ、とは思わされた。まあでも、その後、経験を重ねるうちに、見解に一定の正当性を持たせる"理屈づけ"なんて、ほんとうに、いくらでもどうにかなるものなんだなあ、と学ばされる結果にもなった。
背景や意図をどう切り取るか、その範囲の取り方によって、防衛ラインはいくらでも維持できる。根本的な論点に対する糾弾だって、「関係ない話をしてくるじゃん」と思わせるよう、話の軌道をズラしたりもできる。逆に、論点から離れたところへ攻撃し、「これこそ有効な指摘なのだ!」と偽装することだって可能だし、攻撃のために撃ち出す弾を巨大化させて、周辺まるごと撃ち抜いたうえで、それを「有効な攻撃だった」と、後から言い逃れることもまた可能のようであった。
この世の詭弁をすべて、詭弁だと見抜くことのできるだけの力量も技術も、人類には備わっていないみたいだし。
ダメなのわかってはいるがやってしまう
こういうことはやらないほうがいい、と重々わかっているのに、結局、欲望に負けてやってしまう。というか、むしろまったくやめられず、長らくやってしまっている。そんな後ろめたい行動が、日々の中にいくらでもある。
そういう「おおっぴらに、これをやりました!」とは言いにくい、後ろめたさのある行動を、日記に書こうとするとき、つい、まず、「うまい理屈づけ」を探してしまう。そして、ひとに怒られないように、見透かされないように、ごまかせるように、ごちゃごちゃと手元で調整しながら、言葉にしている。
別に「キレイに整えるのがダメだ」「綺麗事は嫌いだ」とか言いたいわけではない。好きなタイプの綺麗事もあれば、嫌いなタイプの綺麗事もあるし。かならずしも「キレイにまとめる」が悪しき習性ってわけでもないとは思う。が、後ろめたい行為を「キレイにまとめ」て、後ろめたくない言葉に置き換えることが、ヘンなふうに癖になってしまっているとしたら、やっぱりよくないんじゃないか、とは感じる。
見栄えを整えることで、後ろめたさ(そして、その奥にある「そもそも、これはやるべきではない」という気持ち)を、漂白してしまえると思いこんでいるのだとしたら。しかもそれが、自然な思考ルートとして刻みこまれつつあるのだとしたら、さすがによくなさそうである。ちょっとずつ軌道を修正していく必要があるんじゃないかな、とは言っておきたくなった。