捨てメモを使って初手の着想をたまには大事に
思いつきを乱雑に書き残したメモの意図が、あとあと、読み解けなくなっていたとき、結局は放置しがちだ。が、三題噺みたいにして、随想めいたものでも書いてみればよいじゃん、素材にしなおす観点もあってよいじゃん、って思った。読み返して、たとえ、「?」ってなったとしても、なにかは思いついているはずだし。その、率直な着想に、たまには手をかけてみたっていいんじゃないでしょうか。
気取った着想を探す癖はあるが、気取る前の野暮ったいところも手を伸ばす
珍しいことに気づこう、新しいことを閃こう、異質な見解を提示してみせよう、みたいなことを望んでいる時点で、初手の着想って、非常に舐められている。ほとんど自動的に破棄されていると言ってもウソではない。けど、ときには、それを拾ってあげたってよいんじゃないの、とは思った。たまには優しくしてあげてもよい。
たまに出てくるリズムを、身体に受け容れる
「たまには」と付ければなんでも許されると思ってるだろ、っていう指摘はありうるなと思った。しかし、見慣れなさというか、非日常性というか、レア度の高さというか、ぼくにとっての"慣れないリズム"みたいな意味合いのもとで見れば、「たまには」と言えるくらいのものこそが、むしろ、非常に大切なんじゃないか、と言える気もする。違うリズムが侵入してくるシーンが、この世にあってくれるのも、きっと、ありがたい。違うリズムで生活できたときにこそ出くわせるものだってある。
ちなみにこれは愚痴っぽい話でもなく
せまい世界しか知らなければその世界がすべてだと勘違いしてしまう事態、そういうことがあるのは間違いないはずで、いまの職場や上司に対して、ぼくがそういったズレた見解を持ってしまっている可能性は、まあ、大いにある。
おとなたちから聞いてきたエピソード、インターネットで見聞きしてきた話、ビジネスや経営学に関わる書籍で知った知識、漠然と持っていた会社観や仕事観とのズレは、確実にあると思っているのだけど、そういうのは、結局すべて、いわゆる「理想と現実」の違いってやつだよ、ってところに回収されてしまいそうな気もしている。そこに回収させられてほんとうにいいのか?これが現実なんだみたいな乱暴な落としどころでほんとうにいいのか?って気持ちももちろんある。
いまぼくが直面している「職場とか上司ってこういうのがふつうなのか?」っていう疑念は、あくまで、理想と現実の混同によって生じた勘違いじみたズレであって、人類のどういう組織にいったところで、実際はそんなもんだったりするんだよ、どうせ逃れられないやつなんだよ、って思いそうになるところはあるのだった。うーん、そういうもんなのか、って納得してしまいそうでもある。そういうものなのさ、と自分で自分を説得しようとしている気配すらある。
ても、ぼくが、理想論とか絵空事とかすぐに考えて引っこめてしまいそうになる、そんな、思慮深く、ぼくの価値観や判断基準の範疇で「とても納得のいく」、いまの職場とは異なる(ように見える感じの)組織形態が、しっかりと、明確な価値を持って、実在する可能性だって、もちろんあるよな〜、とは思う。少なくとも、「みんな理屈や希望の上ではこうあるべしって言ってるけど、そんな組織、ほんとはぜんぜんないよ」っていう説得の言葉を、あたまから信用する根拠もまた、なくない?とは、思える。思っておきたくもある。
事実、いまの環境における上のひとたちが、これが仕事でござい、おれたちの叱責が正しい指摘なのである、あいつらは駄目なやつらだぜ、と、したり顔でよく言っており、うーん、そ、そうか、なるほど、そういうものなのか……?と、不思議顔をしながら、納得した風に聞いてはいるのだけど、しかし、総じて物事がプラスに(円滑に・有効に)働いている様子もうかがえてはおらず、これ、ほんとうに、納得しちゃってよいんかな?といった不安は、さすがに、ときどき、いだくのだった。
賢しらで偉そうな勘違いスタイルを(もしそうであるなら)ラーニングしちゃったらマズいよね、とも思う。だからといって、この、ちょっと見下した感じのスタイル(あなたたち、なんか、ヘンじゃない?)が、ぼくの愚直さや真剣さをスポイルしており、つまり、不真面目でやる気のないほうに誘導する理由になってしまっていて、それはそれでダメダメな学習スタイルに結びついてしまっているとしたら、それももちろん困る。むずかしい。きびしい。