トラブル対処で学んでいる場合ではない
特に対処が必要なトラブルなどもなく、平穏無事な一日だった。だから今日は特に学びもなかった。といった方向に思考が流れていきそうになるのを感じて、あやういなあ、とは思った。そういうふうに「学ぶ」とか「覚える」を捉えているのは、たぶん、よくない。的外れの好例なんじゃないかとすら思う。トラブルに出くわし、見よう見まねで憶え、「同じ問題が起こったらこのように対処すればよいんだね」と、シンプル型パターンをコレクションする形で、経験を積みかさねる。この振る舞いこそが「新しいことを学んだ」「成長した」なのだ、と捉えているのは、なんだか、よくなさがすごい。
「体験し、対処し、理解したことを、もっと抽象化して――目的と手法に分解して、適用可能な範囲を広げておくとよいんだよ」「馬鹿の一つ覚えみたいに一対一対応で憶えてもしょうがないからね」っていうふうに、学んだことの内容・質の向上に向かって話を広げてみせれば、まあまあマシな話になってくれる気もしているのだけど、しかし、そんなふうに「ワンパターンの魔力」をうまく消してみせたとしても、学習観に対する、じゃっかんのあやうさは、消しきれない気もする。そういうことじゃない気はする。
とりあえず、「対処」に軸足を置いてしまっていることが(そして、それが当然視されていることが)微妙なんだとは思う。「なにかが起こった」ところが動作開始の合図になってしまっていて、受け身というか、待ちというか、そういう姿勢になっているところが、よくない。なにも起こらなくても、というか、なにも起こらないうちに、そして、なにも起こらないように、事前に、察知し、洞察し、向き合っておくのが、最善なんじゃないの?とは感じる。
要するに、対症療法的・経験論的・戦術的な学び(だけ)じゃなく、予測と備え的・理論的・戦略的な学びもまた、ある程度、ちゃんと得られる環境にはしておきたいな~、とは思うのだった。そういう技術、そういう目線にも、接しやすい環境づくりを前提にして、習得してみせたい。それが可能となる学習システムを構築していきたい。
いわゆる緊急度・重要度マトリクスで、実はほんとうに大事なのは「重要度は高く、緊急度は低い」ところなのだ、って言われたりするけれど(結局、重要度の高低を問うことなく、緊急度の高いものばかり優先されてしまい、なんだかんだ放置されがちだから)、同じように、学ぶことにおいても、「ぜんぜん急ぎじゃないけど、しかしかなり大事」みたいなところが、結局は、学びのキモになってくる気はするのだ。あせらなくてもよいところに、ふだんから、ちゃんと、手を伸ばせているかどうかが、カギになってくる感じはある。