気持ちの反対を書く場合
好きじゃないものを"好きだ"と持ちあげてみせるような文章は、あんまり書きたくない。別にそんな機会がそうあるわけでもないのだけど、ちょっとした事情や思いつきで、思惑と異なることばを書き連ねてみようと思う機会も、なくはない。実際の気持ちを否定するような文章を書くこともある。そして、こういうのはやっぱり書いていて気持ちよいもんじゃないな、って思わされたりもする。
けど、これって、「事実と異なることを書きたくない」っていう言葉づかい上の問題(つまり「ウソを書きたくない」問題)なんだろうか、ということをまず思った。あるいは、「それを好きになるような人間だと思われたくない」という、人格上・体面上の問題(「誤解されたくない」問題)」なんだろうか。区別がつきづらい気がした。なかなか微妙なラインにも見える。
あと、逆側のほうに話を延ばして、「好きなものについて"嫌いだ"と書いちゃうような文章だって書きたくないね」と言えるような(言いたくなるような)ケースについても考えてみた。ときにはそういった場面だってなくはない。そして、それはそれで、また別の視点による問題が起ちあがってくる気もする。好きじゃないものに好きだと言ってのける場合とは、角度の異なる話になってくる感じがある。
なんというか、たぶん、好きなものに対する「無礼」「失礼」を気にし始めてしまうのだった。非常に好きなものに対し、「あんなもん嫌いだよ」って言いはなっている自分のおこないを顧みて、敬意のなさを感じたときの、心の痛みが、つらすぎる。そんな断罪と贖罪の問題になってくる気はする。
捻じ曲げはしないように
自分の気持ちにウソをつかないように、とか一概に言ったとしても、難しい。本心なんてそうかんたんにつかめるものでもない。一説には「本心なんてない」とも言われるし、実際、「本心」なんて眉唾の可能性だってあるだろう。だから、こうして日記に書いていることが、「ほんとうの気持ち」かどうか、じぶんでも断言できるわけではない。が、しかし、欺瞞っぽいものや幻想めいたものは、なるたけ排そう、とは考えている。捻じ曲げられる可能性はとにかく減じておきたい。確率を下げようと思って下げられるものでもないのかもしれないが、認知バイアスの存在を認識しておくだけでじゃっかんはマシになる、みたいな対策の話も見聞きはするし、そのへんに倣っておこう、とは考えているしだいである。