世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年03月13日(木)メタ認知くらいしたい

敵がそばにいるなら遠くを見る余裕はない

「メタ認知が大事」という話を聞く機会は多い。「客観性が大事」と感じさせられる場面も増えた。が、いずれもうまくできていない印象の最近だ。昔から苦手だった印象は特にない。が、なんか、ぎこちなくなってしまった。うーん、なんでなんだろう、って考えていたのだけど、これ、まあ、考えていくうちに、「萎縮して、緊張して、身体がこわばっている中で、メタ認知や客観性のような、"落ち着いた気持ちで、一歩離れて、見る"が、できるわけないんでない???」と思うには至った。一般論的に考えても、ビクビクしていると、どうしたって、近視眼的になると思う。安心していないと遠くには目をやれない(だって危険が身近にあるなら目を離せないから)。こんなような事態におちいっているなら、よくないな、とは思い直した。

読書すると、ちょっとだけ落ち着いた気持ちになれて、まなざしも遠くに向いてくれる癖はある。この挙動が嬉しくて読書を好んでいるところもなくはないんだろうな。

流水みたいな文章

ざっくばらんに思いつくままとりとめもなく脈絡もなく文章を書いていくスタイルのやつもたまにやったりするけれど、さいきんはやっていなかった。ときどきやると楽しいな。小気味よいキーボードの音が響き続けるのが気持ちいい。昔は漢字がとても好きだったので、漢字多めでやっていたけど、ここのところひらがなもかなり好きになってきたので、漢字・ひらがなの配分をどうするかはちょっと迷う。基本的にはひらがなを多くしておくほうがよいみたいと思うようにはなった。漢字はものにもよるけど読めないひとがいるかもしれないが、ひらがなを読めないひとは少ないからだ。口頭でおこなわれる会話は「音」のみで、漢字もひらがなもなく、とはいえまあしいて言うなら、ぜんぶひらがなのようなもので、その平易さを持ちこみたいと思うなら、ひらがな多用がいいんじゃないの、って見解には、まあ賛同できる。わかりやすい会話、なめらかなコミュニケーションのためには、ひらがな?やまとことば?とにかく漢字熟語を使うのをやめましょう、という指南を数日前に見かけたばっかりで、たしかに、ぜんぶ「耳で聞く」ことを前提に考えたら、熟語ばっかり使っていくのは、よくなさそうに思える。なめらかにはいかず、どこかでひっかかりやすそうな気はしてくる。とげとげする。ぎざぎざする。ささくれだつ。端的かつぶつ切りにした文章のほうが読みやすいとふだん思ってしまいがちなところがあったけれど、たまに、一文一文は長いんだけどなんだか妙になめらか、ぜんぜん読点つかってくれないのにするする飲みこめる、みたいな文章にも遭遇する。ブレーキがなんとなくかけづらく、逆に、ずるずると引きずられて最後まで連れていかれてしまうというか。論理や因果がわかりやすいわけでもないし、話もあっちいったりこっちいったりもしているのに、にもかかわらず文章のリズムはとにかくよくて、頭のなかにどんどん取りこまれていってしまうという感じ。文学作品や海外小説を読んだときにそういったことばのフローに出くわす確率が高い印象もなくはない。別にどちらがよいとも正しいとも言いたいわけではないけど、口当たりがよくて飲み下しやすい最近のヒット作、みたいなものばかり読んでいると、そういった文章との遭遇率が下がる感覚はあって、そこは残念だ。それでいうと、ジャンルとしては、エッセイのほうがまだ、だらだら素敵文章に出会う芽がある気もする。そうそう、「それでいうと」って、いままで自分はあんまり使っていなかったのだけど、なんだか耳にする機会がふえてきて、ちょっと便利っぽいぞ?って思い始めてしまった。そして、わりと頻繁に用いるようになった。いま、対話の中で語られている文脈を踏まえますよー、って宣言できるので、けっこう使いやすい。「文脈」っていうものが、昔と比べると、輝いて見えるようになった。文章理解においてそこが変わったのは間違いない。上流からの流れをながめるようになった。