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日記を書きます

2025年02月21日(金)相性が悪いのとらえかたの基本は運が悪い

相性問題のほうが重大

持ち込みなどで、編集者にけちょんけちょんに貶された漫画家が、のちのち、ほかの担当に見出され、結果、傑作を生み出したエピソードなんかも、見かけたりする。そういうことはあるんだろう、って素直に思えたりもする。作家と編集者に相性があるのは当然だろうと感じる。良い物語も悪い表現も人によって基準が異なる。それを踏まえた重みづけも育てかたも違ってくるに違いない。むしろ噛み合わない状態こそがデフォルトだろうとすら思う。

それと同じくらいの比率で、仕事における上司・部下の相性だってあるはずなんだよな~、と、あらためて考えていた。

ふだんはあんまりそう思えてはいない。編集者が理解しがたい作家の秘めた輝きを見逃すことが少なからずあるように、上司だって部下の価値を(もちろん、部下だって上司の価値を)きっと見逃しまくっているに違いない、そしてそれは普通のことで、騒ぎ立てることでも、気にしすぎるほどのことでも、ないのだ、と、今日は思い直せたわけだけど、日常だと、あんまりそういうふうには思えていないのだった。

見逃すほうも悪い、見逃されるほうも悪い、いずれかも悪いし、いずれもが悪い、というふうに捉えてしまっている。そして、とても気にしている。ぼくが悪いんだろうかと不安になるし、相手が悪いんだと決めつけて溜飲を下げようとしてしまう。「これはただ"相性の悪さ"という事態の問題なのであって、別に、人間としてどちらが悪いとかじゃないんだ」って文章が思いつけていない。「上司と部下の組み合わせが変わることで、まるで違った結果になることがあるんだ」とか、「個人単体の技能による影響よりも、複数人のあいだの相性によって起こる影響のほうが、大きいのだ」とかも、直観的には気づけない。嫌な世界観を構築してきてしまっているなと思う。

人と人の噛み合わせの良し悪しによってどれくらい人間の動きが変わるものなのかを、たぶん、甘くみているんだろう。単純化しすぎ。ともすれば矮小化している。そこから、「いつだって、どんな状況だって、やろうと真剣に思ったなら、誰でも、最大限の力が発揮できるはずだ」「それができていないなら、できていないやつが(やっていないやつが)悪い=サボっている」みたいな理屈すら演算していそうで、それも嫌だ。

仕事で求められていたキャラクター

コワモテのスパルタ教師みたいなものを求められていたんだな、と、いまなら多少はわかる。なにを言われても鉄面皮を崩すことなく、とにかく威圧的に、揚げ足を取るくらいの細かい確認で、相手に言い訳させる隙もあたえない、そんな厳格な執政官が、理想とされていたんだと思う。「アイツら相手に甘っちょろいこと言ってると舐められるからヘラヘラしてんじゃねーよ」といった無言の圧をずっと押しつけられ続けていた。が、なかなか気づけなかった。きっとそういうふうに振る舞えていたなら、ちゃんと"躾"ができるやつだと評価され、もう少し厚遇されていたんじゃないかと思う。そういった振る舞いを「仕事ができる」ことの条件にふくめている雰囲気は、まあまああった。おそらくここは勘違いではないと思う。最近ようやくそのへんが理解できてきた。そして、それは、自分には無理だった。まったく向いていない。苦手分野だ。というかむしろ、そういった振る舞いとは正反対のありかたこそが、ひととしての正しさだとか理想だとか考えているところさえあって、そこの噛み合わせの悪さは、どうにもならない。いまさら演技で誤魔化すにしても、その範疇を超えている。

といった判断によって、いやもうこれはとにかく相性悪いってことなんだよな〜、だから、ぼくのせいって話にしなくてよい(突き詰めれば、職場や上司のせいでもない)ってことでいいんじゃなかろうか、と思えるようにはなった。そういうふうに思ってみてもよい問題なんだと多少は解釈可能になった。「どちらが悪い」にいちいち落としこまなくてもよい。にもかかわらず、「つまり相性の問題なんだから、罪悪感とか責任感とかなんとかしなきゃとか感じすぎなくていいんだよ」って思い切れていないところもあったため、なんとかしたいな~、って考えていた。

学んだこと

根づいた振る舞いとは正反対の能力というかキャラクターが求められる役割に立たせてもらったことで、学べたことは、たしかにあった。良くも悪くも理解は深まった。そこは感謝したいし、評価もしたい。しかし、だからといって、一定以上まで高めきれない自分の所作や思考をヘンに悪し様に思う必要もないんだよ、って考えたいのだった。向き不向きを超えてできないところまで抱えこまなくてよい。