世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年01月30日(木)準備万端がいつかくるという(勘違い)世界観

準備万端は実はない

ぼけっとしている時間が思いのほか長い。思考のエンジンというか言葉のエンジンというか日記のエンジンというか、そういうものが温まるのを、よく待っている。というか、ずっと思っていることではあるのだけど、「"準備万端"の瞬間がいずれ来る」「この世界には"正しいタイミング"がある」と勘違いし続けている感じが、ずっとある。これはもう、ずっとそうだ。このまま人生さえ終わりかねん、って真剣に考える日もなくはない。日記にもときどきそれに類することを書いている。が、そういうふうに「ちゃんとアプローチしてますよ」「言及してますよ」「リーチしてますよ」っていうだけで、逆に、それを免罪符っぽくして、満足しちゃっている感じもしなくはない。軽く指先で触れて、ゆらゆらと揺れ動いてくれたのであれば、もうそれでだいじょうぶ、くらいの、安易な楽観が、垣間見える。

もっとしっかり動揺させたほうがよいはずなのに、安全圏からちょくちょく「イジって」いるだけで、よしとしている気配が、けっこう濃厚なのだった。体面は保てているぞと身勝手に満足してしまっているというか。いま書いているこれだって、きっと、たいした効果は発揮してくれないだろう。言葉じゃ無理っぽいところはやっぱりある。決心じゃ(言葉だけじゃ)人は変わらん。環境を、立場や関係を、強制的に変えないと、人は変わらないのだ。といった形式の人生指南はかなりたくさん見かけるが、これもまたその範疇の話だ、とは思う。

環境の変え方(自分編)

環境を変えないとダメ、と一概に言われても、たいへんだし、めんどうだし、しっかりした意図をもって、場を変えていこうとするのは、やっぱり難しい。そして、正直怖い。といった軋轢を気にせずやれるような、できるだけ無理のないやりかたがあるとしたら、どんなのがあるんだろうな~、とは少し考えていた。いろいろ見てきたはずなので、どういうやつがあったかな、といった感じのことも思った。

「環境が変わっちゃうかもしれない」フィールドに、あまり深く考えず(あまり深く考える暇がないようなところに)飛びこんでしまえばいい、っていうやりかたが、やっぱり、ひとつの良き選択肢な気はする。ハードルを下げることをどうしても考えてしまうが、ハードルに気づかせない画策というか陰謀のほうが大事な気もする。

あまりよく知らない空間に、ちょっとした勇気くらいで入れるよう、工夫する形だ。そういして入りこんで、そこで出くわすさまざまな新しい出来事に、場当たり的に対処をしているうちに、めまぐるしく動いているうちに、いずれそこにある引力に引きずりこまれ、「いつの間にか」環境が変わってしまっている、っていう「変えかた」が、まあ、わかりやすいというか、やりやすいというか、ビビりを発生させずに実現させやすいやりかた、って気はする。経験上ぼくのなかに発生しやすかった軋轢を、うまく回避しながら進めていけるルートには見える。