世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年01月25日(土)時を経て皆がどう生きているか

友人の連絡を無視する話

「昔の友人らに会ってみたいなと思うことはあるんだけど、でも、実際にいま連絡がきたら、無視しちゃうかもしれないな~」といった発言を聞く機会があって、ツラい気持ちになった。いやまあツライは言いすぎか。うーん、そうかー、ちょっとさみしいー、くらいのところだろう。もちろん、しょうがないとは感じる。なんでもかんでも人間関係を維持していくことが、妥当だとは、たしかに思わない。みんなそんなに時間はない。

とは思いつつも、ぼくがけっこう会いたがりであることは間違いなくて、なんとなく、さみしくはなったのだった。切り捨てられた側に立って、申し訳なくもなった。いきなり連絡するのが素敵ってわけでもたしかにないんだよな~、エゴイスティックな理由なのは間違いないしな~、って気づかされた。「いきなりにはなるけど連絡してみようかなあ」「ひさしぶりに話しましょうよ~」といったようなことを、思ったり言ったりしがちではあるのだけど、それが、かならずしも、善意による選択肢であるわけでも、望まれる振る舞いであるわけでも、ないんだよな、って思わされた。

ひとがどういうふうに人生を歩んでいくのかが見たい。ひとがどういったことを世界に感じていくのかが知りたい。子どもから大人への過程についておのおのの思うところを聞いてみたい。といった欲求のまま、迷惑をあまり顧みることもなく、単細胞にひとにアプローチしていることが、たしかにある。会いたいひとに会わないまま人生を終えることの良し悪しを問うことで肯定的にとらえることだってできるんだとは思うけど、独善的な思惑によって急に突撃してみせることの功罪だって、きっと問えるし、非難だって簡単にできると思うので、まあ、せめて、無礼や無責任にはならないよう、覚悟を決めて、できる範囲で、やっていきましょう、とは思った次第だ。

会いたい人には会っておきたい

昔の友人に限らず、インターネット越し、書籍越し、間接的なところで見知った距離のひとたちにも、「会いたいひとに会わないまま人生を終えることの功罪」が問えるはずだし、考えておいたほうがよいんだろう、とは思ったりする。迷惑なりなんなりの配慮はすべきだろうが、遠慮ばかりして、なにもせずに死にゆくのも、最適解とは思えないし。誰もが最後に亡くなって意味が御破算になるなら、配慮や遠慮、勇気や行動までをふくめて、やれるだけのことをやっておくしかないんだろうし。