どっちもできる
「いったいどっちが世界にとって良いものなんだろう」「どちらが正しいやりかたなんだろう」とか考えたときに、まず、いずれもを習得してみせ、そのうえで、個別具体的に事態を判別して、都度、選んでいきましょう~、それが理想じゃん~、って考えてみる時期が長かったのだけど、そして別に、いまさらそれを否定しなくてもよい気もしているのだけど、ともあれ、そればっかりじゃ間に合わなそうだな人生、と感じる機会も増えてきた。
身体性というか直観というか、「身に染みる」「腑に落ちる」「馴染む」状態を、理想的っぽい選択肢のどんなところにも、分散して振り分けられるほど、人生は長くなさそうだ、って思えてきた。リソースにそこまでの余裕はなさそうだった。「両方やれ」は好きな金言だけど、しっかり要点を見極めて、ほどほど、ポイントを振り分けていく感じでは考えたい。むろんそんな思い通りに行くかもわからんけれど。
恐怖感・嫌悪感・不快感
恐怖感、嫌悪感、不快感あたりをうまく切り分けられないな、って思ったのだけど、そもそも、別個の存在として認識してよいのかもわからなかった。上位レイヤーとか、一部重なっているとか、因果関係や順序があるとか、なにかしら、それぞれに関する繋がりや位置づけもありそうで、そもそも、腑分けできるようなもんでもない場合もあるか、とは思った。まあでも、それぞれ「幹」となる部分は違いそうである。身体的・心理的な反応も違いそう。ざっくりしたことを言えば、持続の長さとダメージの深さが異なる感じはしている。不快感が上位概念なんじゃないの?とも思わなくはないのだが、矢印がほかのふたつと別に重なってないような気もするのだよな~。
思考のフォーカスがそういったところに向いたのは、まあ、もちろん、そんなような気持ちがあったからである。こびりついて離れない澱のような暗い感覚があった。とはいえ恐怖感かな。結局、職場の雰囲気や上司の空気にビビっている感はある。自信を持つ道理も(あんまり)ないのかな、とかも、一面では思ってしまう。できる・できないの軸でいえば、できない時期があったのは確かだし、いまだって完璧とは言いがたい。「だから不機嫌な態度や高圧的な対応が許されるわけじゃない」という理屈で、多少、気を楽にすることができてきたところもある昨今だけど、とはいえ、脳裡には刻まれていて、反射的にビビるところがまだある。うまく消していけるかも不明だ。整理して対処するのがひとつの知性のかたちかな、とは考えて、まあ、切り分けかたを模索してみた次第だ。自分が感じているこれはなんなんだろう?とあらためて不思議に思ったところもあった。防衛と反撃のための怒りみたいなものにも派生したりするし。心情をつかむのはむずかしい。