しょーもない話
おまえ側のしょーもない事情なんて知らんのだが?みたいなツッコミが、日記に関してはありうる。ほんとうに言われたら、「読んどいてなんやねん」みたいなことを言いたくなるところもあると思うが、誰がなにを思うかはもちろん自由だし、しょーもなさを覚えさせやすい文章とそうでない文章の違いというのも、たしかにあると思うため、「そんなん気にしないでよい」とか「いちいち気にしてもしかたない」とかいうほどの話ではないとも感じる。というか、そういった指摘を、できるだけ受けずに済むよう、こころのどこかで、いつもすこし気にかけてしまっているところはある。
景色や出来事の、具体的な描写文なら、「しょーもない」と言われる余地なんて、ほとんどないに違いない。心情や精神に関しても、その挙動をただ描いていくだけなら、そしてある程度の分析や解釈くらいなら、そういった印象にはたどり着かなそうである。
なんというか、正義とか道徳とかの空気が混ざり始めると、あやうくなりはじめるのかな。思惑を説明し、さらに、正義や道徳のもとで、言い訳めいた空気言葉づかいまで使われ始めると、読む側(聞く側)がそれを嗅ぎつけ、なんやねん、って感じ始めてしまうような気はしている。因果をたどり、理由を語るだけならともかく、後ろめたさがにじみ出てきたり、正当化を訴えるような言葉づかいになり始めたりすると、それに反発するようにして、「しょーもな」感が醸し出されてしまうんじゃないか、って思った。
じぶんにとっては大切だったパターン
言い訳めいた言葉なんてものは、いずれ自分の吐いた言葉が呪詛となって回り始めるというか、欺瞞につながって物事をまっすぐ見させなくする効果すらあるというか、最終的には自分に跳ね返ってくるというか、とにかく触れないほうがよい話、って気もするのだけれど、しかし、「日記」として吐き出せたからこそ、客観視できた、毒気を抜くことができた、みたいな状況もまた、ありうるんじゃないの、って気はしなくもない。
なんも考えずに避けていればよいわけでもなさそうな気はする。「日記」にとってはそういう物事こそむしろ大事なんではないか、って切り口だってありうる気もする。そして、必死に避ける理由が「ひとにしょーもない話だとツッコまれたくないから」一辺倒であるなら、ちょっとだけ、考え直してみてもよいのでは?と思うところも、なくはないのであった。