端的情報羅列をなめている
「とても好きだ」「素敵だ」と感じて、誰かに紹介したくなる。せめてひとりでも知っているひとが増えたらよいなと思う。ともすればそれによって幸せの総量が増えるんじゃないかと期待すらしてしまう。知っているひとが少しでも増えるなら("人気"側に一歩でも近づいてくれるなら)、作者が継続していってくれる確率だって上がるはずだろう、といった希望だっていだく。なんだかんだ、紹介するという行為にそれほど悪い要素はない印象だ。無邪気にやってもよい範疇だろう、と、身勝手に思っている。
こういうとき、自分で思いついた言葉ばかりを使って伝えないとダメである、と思ってしまいがちなところはあって、そこはあんまりよくないところなんだろう、って考えていた。誰でも言えるような基本的な事実は避けて、自分の視点・視座からの主観的・解釈的な言葉が出てくるのを、待ってしまう。言葉を選んでしまう。しかし、素敵であることが誰かに伝わるなら、言葉なんて、なんだってよいのだ、って思えたってよいはずである。手段にこだわっている場合かよ、と言ってみせたくはなる。いや、むろん、こだわりたいならこだわればよいのだが、しかし、そこを決めるのを避けて、一貫性なく、ただフラフラしているのは、よくない側面が多そうである。
要するに、「調べればすぐに出てきて、誰でもわかるような、基本的で当たり前の情報の羅列だって、別によいはずじゃん」「もっとちゃんと使おうよ」、と思い直したのだった。のっぺりした事実確認的な情報が「悪」というわけでもない。「自分のことば」みたいなものが出てくるのを待つだけ待って結局書かないよりは(ゼロよりは)よいはずだし、なにより、そんなもん、配分や配置しだいだろう。置きかたでじゅうぶん有効性を高められるに違いない。「自分のことば」とかいうものを夢見始めた結果、なんだかんだ、事実的な情報の羅列をあなどっているだけなところも絶対あるので、そういった見識の浅さも諫めたい。そのせいでめんどくさがって、書かずに終わらせるのも、無意味だろがい、というところも叱っておきたい。