世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年11月25日(月)子どもっぽいくらいがよい可能性

破綻も舐めない

「非論理的」「非合理的」「非効率的」「物の通りがわかっていない」「無責任」「迷惑」「害悪」「非常識」「子どもっぽい」「脳天気」「厨二病」「ロマンチスト」「狂気的」「猟奇的」「頭がおかしい」「ねじが一本足りていない」「危機感がない」「人格破綻」「ひとでなし」「支離滅裂」「ルール違反」等々、世界や社会に対しての、"あるまじき有り様"を示す言葉がたくさんある。いろんな側面から「「現実が見えていないよ」って言ってくる。

けど、ほんとうなのかな、とも考える。こちらのほうは正しくないものばかりだと――逆にいえば、こちらとは反対のほうに愛や善や美やしあわせがあるよと、ものすごく当たり前の顔して押しつけられてきているわけだけど、それに無邪気に従ってよいんだろうか?とも感じる。

たしかに、生きていきやすく、便利で、美しさや格好よさの感じられる指針は、あちらのほうにあるんだな、とは思える。逆らえない引力がある。みんなで同じほうを見ていることによる安心感も濃厚だ。でも、この視座や視角ばっかりなのか?とは、ときどき考えたくなる。そのせいで見えていないもの、見させられているもの、見えないよう誘導させられているところが、ある気はしてくる。

そしてまた、もし、わけのわからない、言葉、人格、概念、空気などに、出くわしたとしても、それをただ「わけわからん」と、「意味がない」と、「価値がない」と、切って捨てて終わらせるばかりじゃダメなんだろう、とも考える。とはいえ、このへんは説明が難しい。どう説明すればよいんだろうな。とりあえず、論理や合理を超えたところに「真実」や「本当」があるんじゃないか、みたいな話と、ちょっと違う気はしている。

なんというか、「結局、世界なんて、一部・一側面しか見えやしないのだ」ということの、ひとつのあかしとして、そういったあらわれかたがあるのなら、それらは大切にしたいな、と思うのだった。世界にはどうしたって手の届かないところがある。つながっているにもかかわらず手の届かない場所がある。絶望的でも希望的でもあるだろう。そんな"手の届かなさ"が、たとえば「ねじが一本足りていない」「子どもっぽい」「ひとでなし」「支離滅裂」みたいな人格の形で、立ちあらわれてくるというのなら、それはそれで大事にしたい、とは思うのだった。希望も絶望も綯い交ぜに、そうして、決してあなどりたくはない、って感じだ。