世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年11月08日(金)構造の先入観で意味合いを気楽に

そもそもどういう解釈の構造があるんだっけ

物事を見るときに、どういう情報・背景が内心にあるかで、解釈や印象が変わる。重みづけのバランスなんかも変わってくる。「人目を気にしすぎてしまっているなあ」と自分でも思うような状況がたまにあるが、「ひとがひとに対してきっちり着目している確率ってけっこう低い」「実際じぶんだってそこまで常にひとのことばかり見ているわけじゃないじゃん」といった感覚を、文脈のうえに配置しなおすことで、目先が変わって、「そこまで人目を心配しなくてもよかったんだっけ……」と、思い直せることがある。さっきまで重大事だと思いこんでいたはずの事柄が、急に、思いのほか軽いものとして、起ちあがってきてくれたりする。

「人を見るのではなく課題を見るべし」「ファクトベースで考えましょう」「心配事の91.4%は実際には起こらない」「人の悩みの九割は人間関係」といった箴言・助言も、こういった「見かたの変更による、解釈や印象のコントロール」に影響をあたえてくれる情報、として認識しているところがあるかな。

これが目標ではないんだった

目的じみたところに配置してしまっていた物事が、実際は、あくまで過程にあるものに過ぎないのだとわかると、なんとなく、軽くあつかえるようになったりはする。ほんとうの目標はもっと遠いところにあって、いまはまだ途中なのだと、だからこそ、途中途中でそんな心配や嫌悪をしているヒマなんてないのだと、実感できると、世界観が変わったりする。そういう転換の瞬間はたしかにある。

苦手なひととコミュニケーションを取らなければならない場面があって、その苦手さにばかり目を向けて、嫌な気分におちいっているところもあったのだけど、しかし、ふと、そもそもの目的を見つめ直してみたら、「そもそもの目的」の大事さのほうが、ぼく的にはぜんぜん上で、「苦手なひとと接するストレス」は、ややどうでもよくなってきた。気にする時間がもったいなくなってきた。ビジネスにかかわるところの助言で、「人ではなく課題に目を向けましょう」といった話を見かけることがあるのだけど、こういうことなんだろうな~、と実感はさせられた。