生きるに寄り添わせるには、無理がある
無能は生きるに値しない、といった結論に向かいかねない筋立ての話は、嫌いだ。端的に無理筋だろ、とも思う。無能か有能かなんて、こちら側で、勝手に決められるわけでもない。才能やら環境やらによる分水嶺をどうにかできるとも限らない。それにそもそも、適切な測りかただってない。どちらに転ぶにせよ、ものすごくフラフラした概念だ。ぜんぜん定められない。
こんなもん、「生きる」に寄り添わせるには、 それこそ「値しない」。たどりつけない可能性のある地点をゴールに据える意味がわからない。測定できるかあやしいパラメータをゴールとして定める意味もわからない。たしかに、わかりやすい構図にしやすいんだとは思う。ぱっと見、わかりやすい。結果、言及もしやすい。だけど、それにしたって、不安定すぎるし、ときに、不適切すぎる。暫定案や仮説として使うくらいならまだしも、それが、本質や本心であるかのようにおこなわれる振る舞いは、やりすぎだ。
たとえミクロレベルで(ひとつの組織やチームの中で)「邪魔」と見なせるひとがいたとしても、そしてそれを許すにしても、同じ構図を広いところに敷衍していって、マクロレベルで(国家や世界レベルで)、「邪魔」だと判定され、決定的に排除されるような人間が出てくるのは、ちょっと困る。犯罪という別格のルールを制定することも(別軸の話として)あるにせよ、「目的に適した所作がとれない」=「無能」といった基準で、疎外がはじまるのは、困る。そんなもんが当然視されるのも困る。
自分の給料以上、稼げる人だけ、許す
会社では自分の給料分を稼げないやつは不要なんだ(少なくとも、それくらいのシビアさやサバイバル感が基本だと知っておくべきだ)、といった話題を見かけて、どうなんだろうなあ、とは思った。管理部門などの「直接稼ぐ手段を持たない」業務をないがしろにすべきじゃない、といった話ではなく、一定未満の能力の(と解せる)人間を、ぜんぶ排除していくスタンス、さすがに無理があるでしょ、と思ったのだった。
少なくとも、その線引きで、世界の基盤を構築していくのは、無謀に思える。平均以上のひとばかりで世界を構成していくみたいな話になっちゃわない?って思った。そんなの、まったく世界平和につながらない。よき状態で継続させられる気もしない。世界を平和にするつもりがないんかな? 悪循環の呼び水をまいている自覚もないんだろうか? あるいは、むしろ、それがよいと感じるタイプの価値観? それとも、とりあえず自分のまわりだけなら無謀だって許しちゃえみたいな状況? と、もろもろ疑問は湧いた。
とはいえ、組織のみんなが必死に頑張っていることで、なんとかギリギリ、持ちこたえさせているケースだって、あるんだろう。余裕なんてまったくない状態。といったときに、有能と見なせるだけの人間ばかりに号令をかけ、なんとか対処していけないものか、と画策する気持ちは、わからなくもない。対処法としてそういった方向に目が向き始めるのも理解できる。そのあたりの理想と現実、目標と対策の調整は、ほんとうに難しくて、統一した答えは、たしかに出せない。難題だ。
全人類、平和かつ幸福に
あと、「全人類、どんどん幸せになっていったほうがよい」「いつだって世界平和も求めていったほうがよい」といった前提が、そもそも妥当なものなのか、問い直そうとするひとがいるのも、それはそれでわかる。とにかく幸福の輪・平和の輪を拡げていきましょう、と、無邪気なお題目をかかげて、そういう可能性をとにかく見出していこうとしているわけだけど、ほんとうに、我々がそちらに向かうべきなのか(というか、向かったところでその先にまで道が続いているのか)は、不明だ。
まあでも、あきらめるには早すぎるんだろう。幸福・平和の拡大に関しては、いまだできていないことも、これからできそうなことも、まだまだたくさんあって、もう限界!と思うには、早すぎる印象だ。もう数千年くらいはがんばってみる余地があるんじゃなかろうか。どこにどんな資源や技術が転がっているのか、まだまだわからないのだし。伸びしろはうかがえる。
まだまだゴールも限界も見えていないような、現状の地平で語るなら、「もっとみんな幸せになっていきましょう」「世界平和を目指していきましょう」といった謳い文句くらいは、今後もしばらく、口にしてみたってよさそうな気はしている。許される気はする。そんな背景のもとで考えるなら、「無能は切り捨てて、有能さばかりを優先していきましょう」論は、少なくとも、まだ、受け容れられないな、って思った。ほんとうにあるかどうかもわからない、つかめるかどうかもわからない、「有能さ」にすべてを賭けるのは、たぶんまだ早い。