世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年10月30日(水)弁証法的な動きの癖・風景描写

弁証法的

事象X、性質Y、解釈Z、目的Aなどについて書き始めると、どうしたって「非X」「反Y」「未Z」「ポストA」あたりのことが気になってしまって、重心の偏りや視野の狭さなんかも気になってくる。できることなら、全方位・全方面を見つめ、視点を一段高めるかたちで、包括的な「解」を出すことができないか、って考え始めたくなる。止揚というか揚棄というか昇華というか、そういった"組み替えかた"に、価値を感じ始める。そして、最終的には、どんどん困難なチャレンジ目標になっていき、「がんばろう」みたいな前向きな言葉をほざいて終わることになる。いっつも前向きっぽい言葉で終わらせてしまうだけになるの、なんなんだろう、って考えていて、このあたりの構造に行き着いた。

五感

感覚・知覚が源泉となったことばは、できるだけ書き残しておいたほうがきっとよいんだろう、と、定期的に考える癖はある。ふだん書き残していないせいで(気を抜いているとそういったところにまるで目が向かないせいで)、余計に感じてしまっているんだとも思う。ほんのわずかかもしれないが、困っている、というか、怖がっている。

肌ざわり、手ざわり、薫り、味、音、空気、温度。風景。色。動き。こういった、フィーリングにかかわるものが、背後に仕込まれた文章と、そうでない文章では、あつかいかたが大きく変わっている気がする。逆算的にいうなら、その文章から「ふくまれた意味」を再生成するときの再現度や厳密性が、あるいは性質が、けっこう変わってしまう気がする。まったくの別種の再現物になるレベルだとすら感じる。そしてまた、思い出すための、記憶のインデックスとしても、活用できる。

たとえば風景描写のような、感覚的な描写を付随させておくことによって、なんというか、遠景的な実感を「楔」として使い、「世界」との距離を近いものにできる、みたいな印象があるんだよな~。逆に、風景描写が混じった文章の中から、そこを「楔」にして、実世界を読み取れるような感覚が覚えられたりもする。世界に相対する文章として、こういった効果を仕込める気がしたので、ある程度、そういったところも狙っておきたいかな、とは考えてみた。