世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年10月17日(木)実は真面目でもない(真面目っぽい言葉に寄る)

書くと前向きっぽくなるがそうでもない

仕事に関する反省点と改善策を書き出していると、前向きにのめりこんでいるような言い回しばっかりになっていることがあって、すこし困る。実状と異なるので困る。真面目に取り組めてもいなければ、専念もできていないからこそ、「こうせねば」感のただよう言葉が出てきているだけ、とすら言えそうなのに、その背後にある、巫山戯っぷりや、やる気のなさを、目立たせることができておらず、なんというか、嘘をついたような気分にさえなってくる。

「仕事」はたぶん好きなほうなんだろう。いまの職場や上司に対する好きじゃなさは脇に置いておいて、現代の人類がかかえる「仕事」という概念自体に対しては、なんとなく前向きだ。意外に大切なところを担ってくれていそうな印象もある。うまく重心を取らせてくれているんじゃないか、とか。いずれにしても、「仕事」にまつわる、文化、歴史、主義、用語、力学、論の立てかた、など、いずれも、評価は高めである。人類にとって存在したほうがよい、よりよい活かしかたがありそう、と期待している側面がある。

なんだかんだ、好意的にとらえているからこそ、「こういうところがうまく回せていないなあ」「このあたりを、もうちょっと、こうしてみたらいいのかもしれない」と、事態の改善に取り組み始めると、どうしても、前向きに、真面目に、対峙しているかのような雰囲気には、なってしまうのだった。くふうできるところはくふうしておきたいと考え、没頭を始めてしまう。

けど、ふだんから真摯な雰囲気で取り組んでいるわけじゃないのも事実で、もうちょっと、こう、後ろ向きさというか、軽薄さというか、不真面目さというか、牽制のようなものも、混ぜこんでおきたいな、とは考えてしまうのだった。そのほうが実状には即していると感じる。このあたりの雰囲気の調整は難しい。雰囲気の調整こそが、記述行為の最重要ポイントだ、とすら思うこともある。

葬儀

葬儀のため仙台駅で下車した。初めての街だった。知らない風景がひろがっていて、楽しかった。通夜と告別式にまつわる定義や規則はあいかわらず曖昧だ。憶え続けていられず、毎回毎回、いくらかは調べ直す羽目になっている。とはいえ、特に問題になるようなことはなかった。お子さまが騒いでしまう場面はあって、適切な距離の取りかたに迷うことはあった。が、特に気にしなくてよかった気もする。特に気にされていなかった気がする。

お子さまにとっては、新たに接する相手がたくさんいる空間で、楽しそうだった。よさげな雰囲気はただよっていた。物珍しいコミュニケーションが発生するたびに、なにがしかを見出し、吸収している気配が、感じられなくもない。親のひいき目かもしれないが、とはいえ素直に、よい経験になってくれているんじゃないかな~、と感じられるところはあった。