よいことをいう
従業員に対してのヒアリング業務をおこなった。部下育成の進捗をうかがう形だった。部下の、業務への理解・態度・実践が、どんなふうになっているか、具体的な近況を質問した。当初からここまでの変化の度合い、浮かびあがってきた得意不得意、今後の理想像と思われるものとそこに至るための課題、育成の指針と具体的な指導内容、風土との軋轢、立ちふさがってくるであろう壁、称えるべき成果、再発しそうなミス、など、いろいろな面が強調されるよう、問答をくりかえした。楽しい情報収集の回ではあった。
というか、今回のヒアリング対象者から聞ける話は、いつも、けっこう興味深い。毎回楽しみにしている。言語化が丁寧なおかげなのか、話の順番や配置が上手いのか、ピックアップしてくるところの勘所が性に合っているのか、対策が明らかに効果的なのか、「なるほど、たしかにそうだ、ためになる」と、思わせてくれる場面は多い。じゃっかんウキウキしながら、今回も意見をうかがいに行った。
社内にこういうひとが数名はいる。毎回、ありがたいありがたい、と思いながら話を聞かせてもらっている。おこぼれにあずかるようにして、ヒアリングした注意点を、ぼく自身のふだんの業務にも、混ぜこませてもらっている。だからといって、上司、管理監督者、指導者、マネージャーとして、適切か、というと、かならずしもそうでもなかったりするところが、難しいのだが。いくら理想論・本質論が見事であっても、それが、しっかり相手に伝わっているか、運用時に齟齬が起きていないかは、別の話だし。
不安定
ヒアリング業務に関する改善点はまだ多いな。数年間くりかえしてきた業務だが(数をこなした業務だからこそ)、あらためて、そう思わされるところもあった。ここ数週でおこなったヒアリング業務でも、幾度かは痛感する場面があった。まず、とにかく安定していない。あたりはずれがおおきい。たぶん所作が一定ではないせいだ。行き当たりばったりなところがあるせいで、基盤がぐらぐらしている。なんのためにおこなっているかという目的意識(と、相手との目線の合わせかた)、その目的のためにどういう問答を想定しておくかという実践的な下準備、どういった回答であればどういう判断をするのかという基準、といったもろもろの、いずれもが曖昧で、浮ついている。
これまでヒアリング回数だけはこなしてきたはずなので、それらを振り返って、そのなかから、「運よく要点をとらえることのできた問答」たちをピックアップしてきて、今後はただただ機械的にそれらを質問していくことにしてみせたほうが、むしろマシになるんじゃないか、とすら思えたりした。すくなくとも安定はすると思う。仮説だけど、平均点が上がる可能性もあると思う。信頼性も高まるんじゃなかろうか。
せっかく積み上げてきた経験から、「手ごたえのよかったもの」「実際に成果の上がったもの」「気持ちよかったもの」などを、取りまとめて、「精度が高められるかもしれないフォーマット」造りをしていないのは、ともあれ片手落ちだろう、とは思った。不用意だし、脇が甘い。そしてもったいない。
よいところ・よかったことを、意識的に残そうとせず、頭の中に残滓として残ってくれたものにばかり、無闇に期待する癖は、昔からある。ポテンシャルに夢を見すぎというか。買いかぶりすぎというか。読書でも勉強でもなんでもそうだ。もちろん、明示的・形式知的・言語的に残してみせることばかりが正しいわけでもないのはわかっているのだけど、しかし、「残ってくれたら御の字」ばっかりやっていても、それはそれで、正しいわけでもない。適合しない場面も多いはずである。めんどうだからラクだから、という逃避が背景にあるんだったらなおさらだ。