言語化の快楽にハマる
ぐちゃぐちゃした想いを言葉でしっかりつかまえられた瞬間って、気持ちよい。同じものを、また、つかみ直してみたとしても、けっこう楽しさが続いてくれるため、つかんだり離したり、そしてまた言葉にし直してみたり、と、そんなふうに、同じ話の中で、繰り返し遊んでしまうことも少なくない。再言語化の快楽にはおぼれがちだ。
足踏みするように、ひとつの問題のまわりを、ぐるぐるとまわりながら、深度や角度がちょっと異なるだけの文章を重ねてしまうことがあるのだけど、このあたりが理由になるんだろう、とは考えていた。聞き手側からしたらしつこいくらいに、近似した言い回しを繰り出して、多層化していく。ミルフィーユみたいにするのが楽しくて遊び続けてしまう。
ここの楽しさに加えて、物事のいろいろな側面をとにかく見せておきたい、という欲求がだいぶ強いため(ひとつの事柄にいくつもの面がある、といった事態への感動が強すぎて、隙あれば喧伝を始める癖はある)、そのあたりも後押ししているんだろう。
親類が亡くなった
親類が亡くなられた。お会いするご縁のないままになってしまい、残念だった。今後数日間の予定を相談した。交通機関の経路や時刻も調べた。主な移動は木曜日になる予定だ。明日の体育の日におこなわれるお子さまの運動会には参加できそうだった。よかった。
今回は予定を潰さずに済んだ。とはいえ、コントロールできるケースばかりでもないだろう。アンコントローラブルな出来事が、いずれ、突然襲いかかってくることも、学んでいったほうがよいはずだ。お子さまにもそれが前提になるよう伝えていったほうがよい。まだ早いか、と言っておきたくなるところはあるけれど。
お子さまのワガママをやや許しすぎているきらいがある。というか、過保護・甘やかしの怖さが起ちあがってきている昨今だ。楽しい気持ちばかりを優先しましょう、といった、多様性のない世界観だけで接しないようにはしておきたい。「甘やかし」がよくない、というよりは、なにかしら一辺倒の薄っぺらな世界観ばかり見せてしまうことによって、せまくて堅苦しいフィーリングが固着してしまう可能性が怖い。