話し合い
政治家の関係者の話し合いをコンセプトにした動画配信を観た。参加者の中にひろゆき氏もいて、議論のさなか、「政治家がそもそもやるべきことはそんなことではなく、あなたがこだわっているのは(本来的には)些事であって、そんなものに「大変だ」と言ってしまっているのは――いろいろなことに金も時間もかかって「大変なんだ」と言ってしまっているあなたは、単なる無能にすぎない」といったことを発言し、その結果、「わかったようなことを言うが、そんなことをいうのはあなたが実務をわかっていないからであって、政治家はほんとうにやることが多く、たとえばこれにはこういう価値があるんだから、やらないわけにはいかないし、無能だといわれるなんて心外だ」という反論を受けていた。
噛み合っていないのは気になった。別にどちらの意見が適切な主張だとも思わないし、議論や話の上手い下手といった問題もあると思うが、これってそもそも別の話を持ち出しているだけなんじゃないの?というところは引っかかった。
本質論もとうぜん話題に挙げたほうがよい
本質論的・理想論的に「政治家」がやるべきこと、と、いまの日本の政治家の実務の内容を比べたときに、それが同一線上にあるかは、あやしいとは思う(意外とちゃんと同一線上にある可能性もなくはないが)。だから、いくら現状の政治家的な実務のなかでやっていることが大変だろうと、そして、それを大変だと口にすることが極めてまっとうとなる文化と歴史が築かれてきていようと、それがすべてであるかのように語るのは、違う。というか別の話だろう。
「政治家」というものの位置づけが、原初に配置されていた場所、あるいは、力学的に配置されているべき場所、から、致命的なところまでズレている可能性は、ある。人類がそのズレに気づけていない可能性はもちろんある。そういったあやうさがある以上、その「ズレているかもしれない『いま』」で頻発している「実務の大変さ」によって、「本来の場所でおこなわれるべき(かもしれない)こと」を、あたまからはねつけていたらダメじゃん、とは思う。
いまある実務をぜんぶ投げ棄てろとまではいわないが、"最終的にはいまの実務をぜんぶなくして、理想的・本質的なやるべきことに向き合えるようにせねば(ならないのかもしれない)"といった危機感くらいは、あってよい。せめて、人間の不完全さを考えるなら、それくらいミスしているリスクは、考慮に入れてみてもよいんじゃなかろうか、って考えていた。