勉強時間が足りない
勉強まわりの行動が足りていないのはずっと気になっている。というか、そもそも、勉強そのものに対する見通しが甘い。習慣づけもいまいち進まないし……。勉強というおこないを舐めてきたツケがここにきてやってきているんだぞ、とは痛感させられている昨今だ。
人が、真っ正面から勉強に向き合うことによって、どれくらい変わりうるものなのか、うまく実感できないまま、漫然とやってきてしまった。たいした効果はないのでは?あくまで生まれつきの範疇から逃れられないのでは?といった理由をつけて、甘く(サボるのに都合よく)見積もる癖が、どうしても抜けていない。後年、勤勉な勉強家のすごさを目の当たりにして、ちょくちょく後悔も反省もさせられておきながら、それでもどこか切実じゃない。
文献を読み込んだうえで、聴きやすくまとめて解説をしてくれているPodcastが、いくつかあって、いずれもたいへん楽しく聴いている。「ブックカタリスト」「COTEN RADIO」「日本一たのしい哲学ラジオ」「コウ・仕事術ラジオ」あたりがほんとうに楽しい。10冊以上の関連書をまとめた話をされているさえある。読書は好きだが、そこまでしっかり「文献をまとめる」ようにして読んだことはないので、感激する。
こういう、ひとさまの「学んだ話」を聞かせていただいているうちに、学ぶことと、「学んだことが頭の中で整理され、思考や認識の土台になっていること」の意味と価値を、けっこうきっちり理解できるようにはなった。情報ばかり、知識ばかり、理屈ばっかりあればよいわけじゃないのも間違いないが、なんというか、そういう「学んだこと」がないのは、そもそも、ダメっぽい。スタートラインに立てるかすらあやしくなるんだな、と思うようになってきた。
行動が実践が大事、主体性や協調性も大事、と、理念だけじゃないようにしていく(頭でっかちにならないようにする)ための、やりくりやバランスの問題も、当然あるものの、「学び」的な頭の働きがないと、なんだかんだ、行き詰まっていく印象になってきた。行き詰まるまでいかないこともあるにせよ、いずれ立ちはだかる壁を突破できるかどうかが、そこでけっこうな運ゲーになる印象、というか。安定度や成功率を考えたら、先達から、理論、理屈を受け継いでいくのが、かなりよい選択肢になるイメージだ。
話す場
学んだことを発表する場を作っておきたい、というのが最近の希望ではあるかな。ブログなりなんなりでもよい。Podcastでもよい。いずれにしても、継続して学んでいくための動機のひとつになってくれるなら、まずありがたい、「ひとにはなす」ということで学習効果が上がってくれるなら、それも期待したい。プロセスのうしろのほうに、「ひとにはなす」ステップを設けておくのは、かなりよいぞ、とは、現状、想像できている。ただただ聞いてもらえるだけでもありがたいはずである。「聞いてもらうだけ」だと、逆に、それなりにおもしろくしないといけない気もしていて(飽きちゃうので)、そういう意味で、「しっかり整理しないと」というプレッシャーにもなってくれそうだし。しっかり整理するためには、しっかり理解できていないといけないだろうし。