うっすらした記憶でつながる
子どものころ、最寄り駅のそばに、小さなおもちゃ屋が出来た日があって、長らく、行きつけにしていた。ミニ四駆もワタルもBB戦士もファミコンソフトもたくさん買った。クリスマスプレゼントも選んだ。店員のお姉さんとも仲良くなった。お姉さんが(いまとなっては具体的なところをあんまり語れないくらい)不真面目で、なにがしかの物語の中に、けだるそうで万事テキトーなお姉さんが出てくるたびに、あのひとのことを思い出している。こんな責任感のなさそうな社会人おるんか?と、たとえば作品内に対して思ったときに、しかしあんなひともいたしな、って納得させられている。
ただ、この記憶がほんとうのことか、証明するすべはない。おそらく友人らと通っていたのは間違いないから、当時の同級生に話を聞きまくれば、誰かしら憶えている人もいるのかもしれないが、しかし、小学校を卒業したあと、誰かとあのおもちゃ屋の話をした記憶は、ほとんどない。このひとなら覚えているだろうと思えるアテはまったくない(当時、誰と一緒に行っていたかもいまいち定かじゃない)。
こういった「ごくごく私的な記憶(ただし公共性がないわけではない)」が、運よく、ふたたび誰かと繋がってくれるような(多少は繋がりやすくなってくれるような)、そんな空間ってないのかなあ、なさそうな世界だよなあ、と、独りで残念がっているところは、多少ある。
インターネットが普及したときに、ぼくの望んだ光景のひとつがそれだった。が、結局、そこまでは実現してくれなかった。もしインターネットがないままであったなら(そしてインターネット普及以前は)、もっとぼろぼろと記憶がこぼれ落ちていっていたはずではあって、ほんとうに「消え去るのみ」だったのだろうけど、だからって、いまの水準で満足しているわけではない。まだまだ「誰ともつながることなく」消え落ちていっている。物足りない。
あのとき、あの場に、少なくとも、ほかの誰かしらもいたはずで、そういった、途切れかけた思い出の縁が、なんとなくほそぼそと繋がっていってくれるような、ノスタルジー空間を、なんとなく望んでしまうところは、あるのだった。誰からも思い返されることなく消えてしまうにはもったいない。あるいは、ひとりで抱えているだけだと、ほんとうにあの出来事はあったのか?という疑念を晴らすこともできなくて、くやしい。