気持ち軸の類似性
「吉田さん」という言葉を思い出そうとすると、なぜだかいつも、「佐藤さん」が口から出てきてしまう、みたいな、別に言葉同士が似ているわけでもなければ、実際のふたりの人物が似ているわけでもないのに、ヘンに混線してしまっていることが、たまにある。意味とか手触りとかニュアンスとか、具体的ではないところに、謎の類似性を見出しているんじゃないかと思う。言葉と言葉はまったく別の位置にあるのに、「気持ち」に共通性があって、直観的に見間違える。あるいは、記憶と経験のなかで、なにかがつながっているのかもしれない。たとえば「たい焼き」のことを想起すると、なんだかぜんぜん関係ないように見えて、距離の近い記憶が根づいていて、「砂浜で遊ぶシーン」が再生されてしまう、とか。
こういう感覚的なつながりを駆使して遊ぶのって楽しいよ、というのが、「比喩」をあつかうときの楽しさのひとつなんだろうな、とは、ときどき考えている。
言語ネットワーク上では、明らかに縁遠いなにかとなにかのあいだに、共通項を見出してみせる。フィーリングの中から、無理にでも類似性を取り出して、一見、無関係だったふたつの事柄を、なかば無理やりに繋げてみせる。そんな挑戦や実験は楽しそうに思える。そしてまた、そういった「繋ぎ替え」を狙った試行錯誤が、素敵な比喩を生むんだろう、とも想像する。
ただ、大変そう、つかれそう、無謀そう、と、ひるむところも正直あって、あんまり積極的に挑めてはいない。「比喩」に妙な苦手意識を持っている理由のひとつだ。別に比喩を探す旅ってこのルートじゃないとできないわけでもないけどね、とは言われそうな気もする。そもそも比喩の楽しみかたってそこにあるんじゃないけどね、とも言われそうな気もする。
また、逆に、こういう「ぼくの中でのみ育まれた、個人的・経験的・感覚的な、つながり」を、うまく見つけ出すことができないと、比喩って使えないんだよね~、といった思いこみのせいで、いらん苦手意識をもってしまっている、むだに発想が狭められてしまっている、っていうところも、なくはなさそうである。