つかれて、回復して
つかれて、回復して、つかれて、回復して、というルーティーンが人生のベーシックな流れではあるんだろう。このとき、「つかれ」で減った分に対する「回復」が追いつかなければ、少しずつ衰弱していくし、ぜんぜん「つかれ」ていない状態で「回復」ばっかり繰り返していたら、時間の無駄と呼べるような日々におちいる。
現状の自分がどちらに属しているか、正直わからない。実際につかれているとき、どのくらいつかれているのか、数値ではわからないし、回復するときに、どれくらい回復してくれるのか(全快まで達するのか)、具体的に認識することもできない。すべてはぼんやりしたなかで推測するしかない。雰囲気だけで決めつけるくらいしかできない。ただ、ぼくの場合、バッファを、緩衝地域を、セーフティーゾーンを、取りすぎるきらいはずっとあるので、きっと無駄が多いんだろうと想像はしている。「回復」量を余らせていると思う。
意外と人間はしぶとい話も、思ったより人はあっさり死ぬ話も、どちらも耳にする。「つかれ」と「回復」に関する、限度もバランスもデフォルト値も、まるで不明だ。なんとなくこれくらいだろうと思っている水準はいちおうあるけれど、見誤っている可能性のほうが明らかに高く、信用できないし、信用したくない。
この「つかれ」と「回復」の過不足の問題を、極めて上手にやりくりできるようにするのが(できるだけ無駄なくやりくりできるような、適切な配分認識を会得することが)、人生におけるコツっぽい気はしている。戦闘一回ごとに宿屋に泊まってわずかなダメージを回復させる習慣よりは、削りに削られたうえで、さらに回復魔法が使えなくなるまで戦い続け、回復の間に合う限界のタイミングで宿屋に泊まるようにしたほうが、トータルでの効率はだいぶよい。回復と回復のあいだの活動量を増やすのが肝要となる。人生のKPIに「活動量」を持ってこようとする振る舞いも理解できる。積極性や攻め気が重要になりがちなのも、活動量に影響してくるからだろう。
ぜんぶ「つかれ」って呼んでいるけど
「つかれ」「回復」「量」「効率」等々、同じと見做しうる"繰り返し"が続いてくれているのだと、自明視している話では、まあある。一昨日の「つかれ」と今日の「つかれ」が、同じ値を、同じような振る舞いで、上下させてくるものだと、都合よく決めつけちゃってるな~、とは思う。人生や世界や時間がそんなわかりやすい形をしてくれているものなのか、実はわからない。人間は、知性は、科学は、「型」や「再現性」を、さも当然といった顔つきで、混ぜこんでくるけれど、ほんとうにこの世の背後にそんなものがあるのか、謎だ。人間の眼にはただそう見えていただけだ、といった可能性は常にある。そんな俎上で、「効率よくいきましょう」なんて謳ってみたところで、どれだけ当てになるのかもわからない。妥当な見解を持てているのかもあやしい。