言葉を漂白するおこない・哲学・世界平和
たとえばある動きがあって、その動きに当初は名前など当然なく(人類がどこかのタイミングで名前を付けただけ、ではあるはずなので)、しかし、いつしか、その動きになにかしらの名前が付いて、そして、その名前が、とても「肯定的・神聖的」な文脈、あるいは「否定的・不浄的」な文脈で、ずっと語られてきたなら、ぼくがいま、それをあらためて耳にするとなったときに、これまで引き継がれてきた文脈を無視して受け取ることは、難しい。「慈愛」「豊潤」は、ぱっと見、よさげだし、「責め苦」「隷属」は、ぱっと見、よくなさげだ。誰かに教えてもらったはずの名前を、教えてもらったときの空気感をなかったことにして見つめるなんて、できない。少なくとも、意識していなかったらできたものではない。
どこかのだれかが決めただけの名前に、そして、いろいろなひとたちのさまざまな思惑のもとでおこなわれた名前の使われかたに、どうしたって、引きずられてしまう。先入観のない気持ちで、フラットかつシンプルな解釈で、そういったものを受け止めるには、かなりの余裕がいる。というか、覚悟と下準備がいる。決して簡単ではない。しかし、困難だとしても、挑戦したほうがよいのではないか、と思うことは多い。そういった「文脈を無視したまなざし」がないと、世界はよくなっていかないんじゃないか、とまでは言わなくとも、こびりついたものを削ぎ落として綺麗にしていくことがしづらくなるんじゃないか、とは考えている。
といった、人類史における逃れがたい意味の来歴を、なんとか漂白してみせるような振る舞いが、「哲学」と呼ばれるもの(の一種)になるのかな、ということも考えていた。