とりあえずスルスル飲みこめるように
日本語は文法的に語順を入れ替えても読めるもんだよ、とは言われるものの、たとえば語順を入れ替える前と後で「読みやすさ」がまったく同じ、とは言いがたいだろう。飲み下しやすさ(飲みこみにくさ)、あるいは、歯ごたえ・のどごし、といったところは当然変わる。自然な語順と不自然な語順が、あるはずだ。
あえて、飲みこみづらいような"固い言葉"を飲ませるシーンだってあってもよい。引っかかることが有益に働く場面だってあるだろう。けど、そんなものはときどきでよくて、日常的には、スルスルと咀嚼できる、円滑な形状に仕立て上げておくのが適切なんだろう。のどごしの緩急くらいあってよいし、むしろあったほうがよいのかもしれないが(ちょっと苦労するくらいが印象に残りやすくなってくれるのかもしれないが)、とはいえ、ストレスなんてほどほどでよい。人類が苦しみばかり求めるはずもないのだし。
「この文章は飲みこみづらいぞ」っていうのは、とはいえ、自分自身では気づきづらいんだとも思う。ぬるっと自分の中から出てきた言葉は、やっぱり、自分の身体性や感性を型紙にして出てきているぶん、自分に対し「通りやすい」ものになっていて、つまり、性に合うため、違和感をいだきづらい。それを精査する場が「推敲」「校正」なんだろう、って考えていた。
推敲・校正によって、スルスルと飲みこめるよう、デコボコを削っていく。まるくしていく。引っかかるであろうところを極限まで減らしたうえで、減らし切れなかったところ、および、ちょっとだけ付け加えたところ、が、アクセントになるのだと思っている。特性とも言える。昔はデコボコを削る意味がわからなかった。それも特徴だろ、と思っていた。常に「あってよい」と考えていた。いまでも特徴だと思ってはいる、が、しかし、必要な、大切な、欲している特徴か、と問われたら、迷うようにはなった。検討の余地はあるな、と考えられるようになった。