世界は称賛に値する

日記を書きます

仕切る転換点3/10金

仕事の話のちょっと続き

まったく知らない世界に移ったせいで視野が狭くなっていた。というか、あたらしい場に気を取られて、判断基準が「いま見えているものがすべてである」というものになってしまっていた。その結果、そこで否定されたときのダメージを大きくしてしまっていた、のではないかと思った。「見えているものがすべて」なので「すべてがダメだ」と帰結させてしまっていた形だ。最近の仕事の環境について(昨日の日記を読み返しながら)あらためて考えていた。

否定的な言説、ダメ出し、叱られが、「我が社ではダメ」「我々の文化・慣習としてはダメ」「お偉方の気持ちとしてはダメ」というような文脈の上で行なわれていることに気づいていなかった話だ。「”仕事”というものはこういうもので、できてないからダメ」というかなりおおきな文脈の上で失敗だと認識させられている気持ちになっていた(というか、言葉上はそう言われることが多かったし、言っている側も、そう思っている可能性はある)。ここについての認識違いで余計に凹んでいた。そこまで凹まなくてよかったのでは、というのが今の考えだ。

しかしでも、「我が社」という基準を気にするか、「仕事」という基準を気にするか、そもそもそのあたりは気にしないで「人生」という基準で気にしようとするか、このあたりは、バランス問題でもあるしケースバイケース問題でもあるし、シンプルに、ぼくがどうしたいか、という目的や思想や気分の問題でもあって、安易に、「人生」ほうが大事で「仕事」なんて気にしすぎてもしょうがない、とか、「仕事」としておかしくないなら「我が社」基準なんてどうでもよい、とか言えるような話でもないか。学校のクラスでの悩みを、広い世界を見て基準を変える(行動を変える)ことで解決に導くやりかたはあるだろうけど、学校のクラスも重要だと言える状態なら手を抜いている場合でもない。

とはいえ

しかしそのあたりの思考も勘違いの可能性がある。こわいなあ。凹みすぎて自己正当化が可能な道を錯覚・幻視しているだけかもなとは考えてしまう。というかそれが怖いせいであんまりこのあたりをしっかり見つめてこなかったところはある。

まあでも、ここまで何度も”そう感じる”機会があるならば、そのぜんぶがぜんぶ勘違いってこともないんじゃないですかね、とは思えるようになってきた。少なくとも、自分が感じていることをすべて「錯覚かも」って思ってたらなにも始められないよな~と思った。気をつけつつ、そこから始めるしかない。いやまあ、こういう初手が今後引きずるバイアスにもなっちゃうだろうからホントに難しいけれど。人生は難しい、人間は難しい、でもやれることをやればよいよという話か。