世界は称賛に値する

日記を書きます

再現する十二日、土曜日

ダイアリーとログ

はてなダイアリーという概念が消滅したことに対して、今でも少し哀しい気持ちがある。なんとか「ダイアリー」と「ブログ」を両立させる道とかはなかったのか、という妄想もしたりする。人類にダイアリーとブログを別物として認識させるのは難しそうな気もするけれど、実現したらそれはそれで面白い文化になっていたんじゃなかろうか。日記はまあ混線の余地はそれほどないか。ブログって概念のほうがよほど境界線が曖昧だろう。いや、ブログというか語源的に見るならログかな。ダイアリーとログ。厳密に見たら人類、区別できてなさそう。というか、区切りを自然に見出せさせるための策を立てるの、面倒そう。

描写と説明

描写と説明、が対比されることがあるかと思うのだけど、この二つを並べるのってレイヤーとかあってるのか?っていう疑問もけっこう出る。目的と手段、フローとストック、主観と客観、理系と文系、理性と感性(理屈と感情)、質と量、といったような「少し異質な対比」たちに感じるものと同じような違和を感じる。違和のせいでいろいろと考えてしまうため、いろんな仮説も思いつく。物理、心理、構造、意味、解釈、因果、目的、構造、知覚、理解、外側、内側、動き、理屈、実際にあるもの、読み取るもの、現象、答えとか、いろいろなものを当て嵌めて試したくなる。

目線と表現

描写する時/説明する時に、見ているものは何か、というふうに、目線の在りかたにフォーカスする切り口がまずあって、それとは別に、それらの時にそれぞれ言葉がどういうものになっているか、というふうに、表現の在りかたにフォーカスする切り口がある。ここを混線させているのが混乱のもとの一つだな、とは認識した。

意外と量が書ける

書き終わってみたら意外とたくさん書けていて満足する。一行か二行で終わる段落を作ったほうがいいよとは思った。シンプルな着想を残す癖もよいものだ。というか、着想一つで「おもしろいー」と思わせてくれる書き手に対する尊敬が強い。テキストサイトから受けた衝撃と、短歌から受けた衝撃が、けっこう混ざっている。。

ナチュラルアクション

人目が気になってできない/しづらい話、を話したくなった時、その横に、人目のことなんてぜんぜん気になってなかったなあと思えるナチュラルな行動の話、も、一緒に置いておくとよさそう。

嫌い分け

嫌いだって書く時、もう少し分解してもよいかなと思った。おそろしい、かなしい、いらだつ、くらいは分けてよい。そこに含まれない「嫌い」もあるだろうけど、雑に取りまとめていることも多々ある(と気づく場面があった)。