世界は称賛に値する

日記を書きます

策定する十日、木曜日

幼稚

精神に対して、幼稚、って言うのが嫌いだ。幼稚でもいいじゃんと思うし、幼稚ってそもそもなんやねんとも思うし、幼稚を排除した立派な「おとな」が理想で完成なんですかねえとも思う。おとな概念を狂信しないぞという気持ちだ。立派なのは、まあ、いいけど、でも、それはそれというか、うーん、ケースバイケースだという判断は、常に抱いていたい。

反省

日記を反省の宝庫にしがちだ(後悔じゃないのはマシである)。好きとか楽しいとかばかり書きたい気持ちも強くあるのだけど、シンプルに脳から言葉を出していくと、ここが駄目駄目っすね~、ってところにばかり、フォーカスを当ててしまう。まあでも、言葉で示されると、誤魔化しづらくなる、目をそらしにくくなる、逃げにくくなる、という性質については、ありがたく思っているか。そのための言葉は置きたい。活かしたい。

自意識

日記を書いてなかったせいと言っていいのかわからないけど、自意識を制御しようというアクションを昨今はあんまり選ばなくなってしまっていて、というか、無意識のうちに選択肢にも挙げないようになってしまっていて、改めて、言葉のもとで見つめ直してみたら、思った以上にめんどくさいことになっている気がしてきた。放置しすぎたな自意識。歪みが目立っていて気になるー。 自意識って概念、ちょっと存在が怪しいというか脆いというか、幻想と錯覚と誤解がすごそうなんで、書いてはみたものの、取扱注意ではある。

自分の文章

自分の文章、自分の文章って感じだ。結構すごい。別に独自性とか独創性を見つけて褒め称えたいわけではなくて、単に、こういう感覚が存在するのって面白いよね、という判定である。日記以外の仕事的な文章とかでは感じられていないから、日常描写、思考描写、などをしようとした時にだけ出てきてくれるやつなんだろう。レア感覚探し。よい。

年齢関係なく

こんなことまだ書くんだなと思うし、そういうふうに思い始めるのが終わりの始まりだろとも思う。(目を逸らし始めたら終わりだとは思うなあ、年齢に関係なく)(という言葉で誤魔化しているいる範囲はありそうだけど)(あと、年齢に関係なく、ってところの判定も少しあやしい。すぐ「年齢に関係なく」とか言いたがりそう⇒要するに、ろくに考えずに言ってません?)

常套句

執筆するとき、初手で、地に足のついていない常套句を置いてしまうと、それに振り回されてつまんない文章になっちゃうよね、って言葉を書いたけど、ある文章の次に置く言葉を常套句に頼った時も同じことになりがち。常套句はやめたほうがいいよ、っていう文章指南は結構あって、かなり信用している。印象で連想ゲームしてくれる脳、わりと自然なものだと思っているけれど、執筆に対しては、厄介者として参上しがち。