世界は称賛に値する

日記を書きます

最近読んで浮かんだ発想ぜんぶ混ぜて日記書いた

▼▼最近読んで即座に浮かんだ発想を棚卸的にぜんぶ混ぜた。整理して出荷は諦めた。鰻は、まあ好きだとは思っていたけど、食べられなくなるかも、という評判を見掛けて、悲しくなるくらい好きだとわかった。知人が死んだ時のことを想像するのに似ている。というか、死ぬまでの人生でもう出逢う機会がなくなる、という状況の対処について、同じ回路を動かしているんだと思う。人生機会回路である。人生機会回路は日々の経験によって変質してきてる。以前とは違う、とよく思う。図書館や巨大書店で本棚眺めて「ぜんぶは読めないんだぜ……」って打ちひしがれる、のには、慣れたか飽きた。踏まえてどうしようか、って思えるようになった、と迷い無く断言できたら恰好もつくのだけど、思考停止や諦めも一緒に混ぜてしまってたりするので、派手には見せびらかせないなと思う。思考停止や諦めはなんで見せびらかせないの? って思いついたけど、迷惑や被害が統計的に多く嫌悪を誘いそうな脳内を見せびらかして嫌悪確率をあえて高めなくてよいのでは?と結論した。同等程度に真善美を打ち出せてるならともかく、不満や悪行の匂いが強そうな時だけ、派手に開陳して演出してみせるのは、害や不利益がおおきすぎる。えー。なんか鰻の話だけで長くなった。話題をサクサク変えよう、って当然思った。こういう「当然の思考の流れ」ってぜんぜん守らない傾向がある。当然さに意識的なほど顕著である。至極当然、って認識が聞き流しを発動させてしまうんだろう。真剣に扱う必要がないと思ってしまう。天邪鬼的に当然を避けたがる。道徳なんかも最初は疑ってから好き嫌いでうまく受容して保護してることが多い。単純な好き嫌い選別だと敗北しがち、ってことを学んでからは多数の小技も混ぜてる気はする。多面や側面も大切にしてる。なんていうか、哲学が物凄く好きだし倫理は慎重に扱ってるので「してはいけない」に盲従してる信念はわずかだ。してはいけないことなんてないでしょが自然体である。いや、してはいけないのはなぜか?自然体かなー。この自然体を基礎として構築してきたスタイルやスタンスは滅茶苦茶沢山あるけれど、起点となる視角はあくまでもこのあたりなので、このあたりから軋轢が発生することは少なめだ。問題が起こりにくい構造になってる。まあ強く表明したり押し付けたりすれば無論ギリギリと音を立てるけど、このあたりも言葉選びで可能な限り滑らかに摺り合わせてるし、相手の話も聞くようにしてるし。親しさからの油断等もあるので完璧じゃないけどまあ意識はしてる。意識していれば少しずつ減りはするだろ、って認識の信奉者ではある。ここは完全に信仰かなー。じぶんを意識が扱える、とはまあ強く思いたがっている。重視してる。平等や公平や社会についての話は、やっぱりまだまだ馴染んでない、と思っちゃうなー。馴染んでないから大切にできてるところがあるぽいのも若干面倒だ。要整理で要作戦、って印象である。まあこのあたりの話は改めて整理してから書いたほうがよい気もしてきた。いずれにせよ、不平等や不法に近しい意見をじぶんが抱くことは「自然」だし「前提」で、別に駄目ってこともなく、むしろ、このあたりを前提にしてるからこそ言える言葉ってのも沢山あって、言えるのが役立ったりもしたし、まあうまくやろう、っていう状況が、好きになってるのだった。やりくりするのに慣れてて困らないでいられちゃってる。死ぬほど抽象的なことを書いた気がする。ひさしぶりに抽象に淫した。楽しかった! ここまで書いてもう読み直して推敲するの無理じゃないかなあって気にはなってきてる。けどしそうである。する雰囲気の人格なんだよなー。面倒だししたくないよね、って言いながら、する時多い。しない時もあって、ほんとうに面倒かつやんなくても一緒でしょって思ってたらやらない。やんなくても一緒でしょって思いながらやらなくて失敗しちゃって後悔することも多いので、やんなくても一緒でしょって判断に対する自信はぜんぜんない。経験的自信がないのに決行しちゃってる判断ってほんとうに弱点なこと多い気がする、って今初めて思った。余談だけど初めてと始めての違いは日記を書くようになってから考えるようになった。話題性話題を八個くらい並べて書き始めたのに二個しか消化してないね。任天堂の新展開の発表を見て楽しくなった。スマブラは買う。あと烏賊の奴がよい。TPSやFPSは得意じゃないけど嫌いじゃなくて、けど酔うのだよなー。困る。山羊は鰻と絡めて話に乗せようと思ったけどまあよい。動画で山羊シミュレーターを見掛けて少しだけ気になっている。変なものを作ろうとしているのは素敵だ。任天堂の烏賊の奴もそうだ。頭おかしい……!って称賛は脳裡に浮かべるのが気持ちよい。嫌いな音楽話あったな。音楽話は、結局、音律と歌詞の兼ね合いのようなものがまずよくわからなくなってて、このあたりまで含めて神経と経験と知識で好き勝手に決めてよい、とするなら、基準が極めて身勝手になるため、嫌悪の理由を言うのがほんとうに難しくなっちゃうなー、極めて慎重に言わねばなるまいねー、みたいになって、思考が終わる。音律は味と同じようなもんなので、味の美味しさの強調が相手に通ったことはほぼなく、賛同の得ようとするのはなんか違うし、歌詞だけはまあ理解軸で語れるけど、としたらあとはこのあたりの均衡をどう扱うかだねえ、っていうのも考えた。音楽と歌の区別や扱いの違いも不明瞭だ。歌詞が物凄くよくても模倣した音律やド下手な演奏だったら駄目なんすかね?とか? このあたりの諸々の整理を見せてくれてからじゃないと人の話が聞けないなー、なんて思ったりもできるけど、だとしたら切りがないよなー。まあ切りがないからこそ各自わかる範囲で決めておいて持論語っちゃおう界なのかな。というのも思ったし、好きではある。HUNTER×HUNTERの新大陸話は、ここまでの物語で伏線のように思われてたかわりと微妙な諸々の演出が綺麗に関わってきそうで、楽しめてる。っていうのを、説明してる話を読んでなかったら見逃してた気がするので、強く感謝している。いやなんかほんとうに伏線を見逃しがちなんですよねー。漫画の読みかたが下手、って気は前からずっとしてる。可能な限り鍛えたい、とも思ってる。小説に図を挿入することで小説にどう影響するのかという話については改めて考えよう。まあ、この日記を書き始める前に、話題を複数用意して書いたとしても、最後はきっと話を駆け足にしちゃって、乱雑に放り込んで、ばたばたを見せて終わる形になるだろう、と想像し、いやいや未熟だった頃とは違うんだぜ、って脳内で答えながら書いてみたけど、駄目だった。駄目ってことで終わらせようとするだろうな、っていうのも頭の隅で最初から少し許してたし。というような独り芝居的な甘やかしと油断を律せるようにならないと、結局いつまでたっても同じ空間で足踏みしてるような羽目になるのでは……? 甘えだけで生きてく気……? いやまあ甘えだけで生きてけるように算段立てるのが妥当というかアリな気もするけど最初っからそれ踏まえてるとまた無意識甘えが発動するだろ……。と、視点が巻き戻った。だとしても別に無限ループではないのでなんとかしよう。三周で飽きて次に行くと思う。