世界は称賛に値する

日記を書きます

消防訓練

▼▼勤務を午前9時から始める。勤務開始直後から防災訓練があった。参加する。最近は比較的頻繁に「地震災害」を想定した訓練が実施されている。地震災害想定には若干の違和を感じる。地震災害なんてほとんど想定していなかった時期があるからだろう。間違いなく二年前は軽視していたはずである。状況も心理もぜんぜん地震に向いていなかったと言える。判断も恐怖も薄かったし甘かった。けど、実際的に「濃く思ったほうがよい」状況を経験できたために、真剣な眼差しで見つめられるようになって、でも、明確な害と恐怖が見通せたものだけに対策を繰り返す後出し具合に、軽い違和を覚えるところはある。
▼▼防災訓練って役に立つのかなー、と思っていた時期が比較的長くある。被害時もまあ落ち着いて判断できるだろう、なんて思っていたのだ。視野が狭かった。避難誘導の声かけや避難経路の確保などが、まるで想定外だったからだ。役立たせられるだろうな、と判断できるようになったのはむしろ最近だ。対策のよさを知ったぜ、とは言える。避難誘導の声かけや避難経路の確保などを含めて、被害時の混乱に対する準備として、事前の行動統制と、事前の情報共有が、如何に活かせるかを知った、のだ。
▼▼けどまあ「対策できることのよさ」が認識の「素晴らしいぜ!」という位置に位置づけられてしまったことで、対策できない、っていうことに対して、嫌悪的な視線や恐怖的な心理で敏感になりすぎてしまっているところも、たぶんある。
▼▼対策できないってことに対しての対策、および、過敏さに対する対策、は、現時点では思案中だ。って考えてたら、対策立てようとして放置してる案件が人生に多すぎる気がしてきた。問題視し「対処してやろう」と思いすぎてるような──対策っていう言葉を賛辞しすぎてるような、雰囲気がある。対策って概念の見直しを図るほうがよいのかな。対策よいぞって思いすぎ。対策に対する対策、なんて言えるけど言わなくてよいか。