世界は称賛に値する

日記を書きます

うそにっき

▼▼憶えてない日のことを書こうと思う。記憶を探らないで書いてみようと思った。だから嘘を書いている。いわゆる嘘日記だ。嘘日記という言葉は聞いたことがある。好きなほうだろう。現時点までの四文ないし五文に嘘はあったかなー?と考える。まあないかもである。嘘の定義は難しい。っていう思索も嘘みたいな匂いがしてる。
▼▼憶えてない日に哀しいことはなかった、ように思える。悲哀的な心情は、胸中に強く深く刻まれがちで、結果、記憶にも残りがちだ。だから、結局憶えてないので存在もしなかったのだろう、という雑な推測もできる。嬉しいことはあったかなー。嬉しいことは同様に──逆様に忘れがちだ。忘れてもよかろうと思っているところはある。嬉しいことは忘れてしまえという意識だ。悲哀は憶えてろ、って思っているのかな? ていうか忘れるな憶えてろと思うことに意味なんてあるかな? だって忘れるのにねー。結局忘れる時は忘れる。けど、決意したり覚悟したり発破かけるだけでも快楽だったりはする、か。瞬間的かつ主観的な快楽が存在するなら意味なしなんて言わなくていいじゃんとは思える。
▼▼瞬間的で主観的な煌めきに意味を求めてもよいじゃないかとは思ってる。
▼▼意味ねえよー/意味あるのかよー→瞬間的な気持ちよさが意味だっていいだろ、っていう流れがもう好きじゃないな。紋切り陳腐で好きじゃないっていうか単純に飽きてきている。実際問題「意味」って言葉の周辺には聞き飽きた言葉が満載だよなー。なんて粗い指摘で満足してると痛い目合うぜ、っていう叱責を空耳したので姿勢を改めよう。
▼▼意味ない/意味ある、意味がないことが意味だ、意味があるようで意味がない、短期的には意味がある、長期的に見れば意味がない、意味を作る、意味をなくす、意味を見つける、意味を見失う、意味を愛し、意味を嫌う。誰かと対話するようにして意味のことを探り深めていくのは好きだ。誰かと誰かの間で意味の取り決めをするのは素敵だ。
▼▼ぜんぜん嘘日記じゃなくなってきてる。でも嘘だ。意味はわからなくなってる。
▼▼いみがわからない、っていうツッコミはよくしてる。物凄く頻繁に言ってる。からかう印象で、意味で、言葉にしている。楽しげに笑いながら言葉にしてると思う。改めたほうがよいのかな。単語的に不満を向けてみたので若干引き気味だ。けど、素直に観察したら改善案件にはぜんぜん見えてないな。改善する気は起きてない。いみはわかるかな。まあよい。意味は好きだ。嘘は微妙である。具体を書かなければ嘘にはできないなー。