世界は称賛に値する

日記を書きます

土曜日の始まり

▼▼難解で困難なことばかり推奨してても人生は巧く回りそうにない。安易安直、軽薄や単純、的な傾向を厭うのは、違うだろ、って思った。効率を上げようと工夫するのと、手抜きを許して勧めようとするのは、違うのだ。逃げるのが駄目、とかもなんか違うなあと思う。単純さや軽薄さが必要だと思えるなら使えばよい。逃げるのが重要だって思えるなら別に逃げたってよい。取扱いは慎重にして非常時以外は待避させておくのと、びびって眼を逸らすようにして封じ込めてしまうのは、違うぜ、と改めて思った。
▼▼勤務後に帰省の人と会う予定がある。対人についての思考はやはりまとまらない、と改めて思った。▼▼邂逅や巡り会いを「沢山の要素を持っているもの、として見なすことのできる「人間」というものが、結びつくことによって、解釈可能性がさらに拡がり、数え切れないほどの可能性が、創発、開闢してゆく」的なものとして見ているかな、なんて思って、書こうとして、嬉しい話なのか悲しい話なのか迷ったところで、止まった。

昨日の読書記録というよりは散歩の記録で、おすすめと記憶を兼ねたいと思ったものです。

→ 「ある種の社会理論はそれが適合する歴史的条件のときがあり、適合しないときもある。  フェミニズムは「豊かな時代」の社会理論である。  社会が豊かで安全であるときは妥当するカバリッジが広く、社会が貧しく危険なものになればカバリッジが狭くなる。  それだけの話である」

→ 「だから本(文字)を読むときは必然的に熟読することになり、ざっと流して読むということが難しい(流して読むと、文字の形の変化を目で追っていることになってしまって、意味が入ってこない)」

→ 「まあ、いろいろ議論はあるが。 道元は、この問題について、「薪、灰となる。さらに返りて薪となるべきにあらず。 しかあるを、灰は後、薪は先と見取すべからず。」とした。 言い過ぎでもあろうが、因果律はないというのが、道元の仏教である。というか、それが仏教である。では、運動はないのか。というと、道元はあるとしている。 ゼノン、大森、道元、彼らが同じことを言っているわけではないが、線形的な時間というのはないのだということなのだろう。ベルクソンをそこに入れるべきかは微妙」

→ 「例えばある航空会社が行った実験。フライトの大幅の遅延やキャンセルなど、航空会社が「輸送上の事象」と呼ぶトラブルに巻き込まれたお客さんを無作為に三つのグループに分けて、その後八ヶ月に渡り、一つのグループは正式なお詫びの手紙を受け取る。二つ目のグループはお詫び状に加えてその航空会社のプレジデントクラブへのお試し入会期間が与えられた。そして第三のグループは比較の基準として、何も受け取らない。  こういう実験をして、ただのお詫び状だけでも効果があるばかりか、翌年その航空会社に使うお金が増えるという結果が出た。こんな風にして、ありとあらゆる会社が無作為実験を行っている」

→ 「逆に、「勝とうとする」という能動的な目標を明確に覚悟して、その勝利を報酬を設定してその嫌なものや敵対的なものに臨むように意識していくと、多少は快感が上がって集中力が増すようにできる気がしないでもない。  集中して読み取るということは、いかにしてその対象を「自分」が欲するように意識を設定していけるか、という調整の働かせ方が必要とされているらしい。  具体的には二つ。対象を深く観察することを肯定するような枠組みを確立して、その流れとして必然性に乗ろうとする。  それか、前提となる大きな目的(大志)を自分で強く自覚し、覚悟する。  特に後者が定まれば、自然と前者のような対象観察という行為を肯定する枠組みを作り上げるように意識が形成されていくような傾向がありそうかと」

→ 「ブローティガンに会ったら、いいにくいこというんですよ。ぼくが、二作目書いたよ、っていったら、彼がいうのね。要するに、二作目は一作目で修得した技術とイマジネーションで書ける。「きみ、問題は三作目だよ」って(笑)」

(間違った。実際的な記録としては4月29日木曜日の日記となります。はてな星を頂戴しているので、設定変更はせず、追記等で補足しておこうと思いました。以前に設定変更して、星を消してしまったことがあって、凹んだので、まあ繰り返さないようにしようと思った次第です。最前線に置かれ続けてしまう、という問題あたりは、まあよいか)