世界は称賛に値する

日記を書きます

水曜日の始まり

▼▼起床時刻は午前6時半。勤務開始は午前9時。面談というか説明というか、最近と今後の諸々の変化について、詳細を聞く機会が待っている、ようだ。期待がないなあ。油断があるって言ってもいいかな。腑抜けた言葉と心でよしとしてしまっている。諦めている証? って言える? ▼▼まあ確かに諦め混じりっぽいなー。ならば駄目だなー。もう全然駄目だよなー。何とかしようぜー。ていうかなんで何とかしようって思おうとしてないのさー。とか、自然に言えてしまう場としてココを設定している、のが、わかって──頑張りが噴出し頻出してきてしまうことがわかって、おもしろいなーって思った。
▼▼習慣と癖で、勝手に、微笑みと、元気に、繋げてしまう。驚くほどの抵抗のなさで無理のなさで繋げてしまう技すら構築し始めている。ような気がする。言いすぎかなー。でもまあ言っておく。現状を語っておく。再来の可能性を一mm向上させるためだ。
▼▼読書は『零崎人識の人間関係 匂宮出夢との関係』を読んでいる。読み終えた。同時刊行の四冊を読み終えたと言える。切実なる好きと嫌いが断絶するなら、もっとより、進退極まりないところまで追い込んで欲しかったな、と思っているところはある。最初の一冊と最後の一冊が好きなものだった。無桐伊織で始めて匂宮出夢で終えて、よかった。

昨日の読ませていただいた記録です。備忘録混じりに日々記録しております。

→ 「つまり、色と色の違いで境界になっているものは、素人でも上手にかけるが  凹凸が生む、つまり陰が生む境界は難しいのだ。  それは鼻の凹凸が生む影のグラデーションに(マッハバンド)が生じて、正しい(輪郭線の)境界が見抜けないからだ。  逆を言えば、凹凸を線や色で翻訳さえすれば、素人でも鼻をうまく素描できる。  つまり、写真ではなくてうまい人の人物デッサンの絵にしてしまえば、鉛筆の線や色で翻訳されているから、描きやすいのだ。(斜めから見た実物の自転車を描くときに、頭に自転車の車輪が横から見たら円っていうのが邪魔して、楕円がうまく描けないとかね。)」

→ 「図式の(悪ノリ的な)展開にしても、諸要素間の(強引な)関係づけにしても、ここで目指されているのは、様々にたちあがって(呼び込まれて)はざわめくそれらの諸細部が、最終的には相殺されて意味がゼロ(内容がない)に近づくことであるように感じられる。ある方向への力が生じると、それを打ち消す別の力がすぐさま生じる、という感じ。勿論それは、最初から意味がゼロだ(なにもない)ということとはまったく異なる。様々なざわめく力のポテンシャルが、ある一定方向に流れることなく、テンションを増大させつつもニュートラルな状態をずっと保っている、という感じ。そのような意味では、やはりこれは「抑制」的な作品なのだろう」

→ 「クリステンセンの論文の新規性は「従来版と共通の技術に基づく単なる劣化版がベース技術の進歩によって性能的に優れた従来版を駆逐する。画期的な技術革新がなくてもイノベーションは起きる」というところにある。  画期的な技術革新がなくてもイノベーションが起きるだと!ようやくこの本の何が面白い点なのか理解した」

→ 「とりあえずは、何を確信して何を保留しておくかといった情報の整理付けをしながら、自分の責任と他人に任せることをほどほどに任せながらやりくりしていくしかないのだろうけれど、社会が集団として信用を低下させるようになり、他者に世界観を委ねることが難しくなっているという傾向が強まっている気もする」

→ 「たぶん彼女は記憶と思考を選ぶことが、まだうまくできないのだ。それに抽象概念の操作にも慣れていない。だから頭の中を時間軸だけで切り取ったような文章を書いている。  これはすごくいい文章だよ、と私は言った。七五三なんか放っておいたっていいじゃない、ここはひとつ朝ごはんまででいこうよ、捨てちゃうのもったいないよ。私がそう提案すると、彼女は重々しくうなずいて、まあね、これ自分でもわりと気に入ってる、と言った」